『八幡愚童訓』によると、
文永11年10月14日(1274年11月13日)の夕刻、壱岐島の西岸に元軍が上陸したという。

これに対し、壱岐守護代・平景隆は100騎程の手勢で応戦。

しかしながら、射程距離が長く連射の利く弓を持った元軍の前に、瞬く間に後退を余儀なくされ、守護所であった樋詰城に篭る事となる。

日没に伴い、元軍は船に戻ったものの、翌日になると樋詰城への攻撃を開始したようだ。

結果、城内の平景隆は自害。元軍は壱岐を征圧すると、島民も多数殺害されたらしい。

そして、平景隆の下人・宗三郎という者がこの事態を博多に伝えたそうである。


歴史は常に動いている。