蒙古襲来について記された書として知られる『八幡愚童訓』によれば、
文永11年10月5日(1274年11月4日)午後、対馬の西岸に多数の船が現れたという。

やがてその船は佐須浦という浜(現在の小茂田浜)に接岸。
その数、約450艘。

日没の頃、対馬の守護代・宗資国(そう すけくに)は知らせを受け、80騎程を率いて夜道を佐須浦へ向かったらしい。

夜が明けてから、資国が接岸していた船に通訳を使者として送ったところ、
7~8艘の船から約1000人が上陸し、矢を射かけてきたという。

資国は応戦したものの、やはり多勢に無勢、ほぼ全滅したそうである。

そして、佐須浦周辺の集落には火を放たれたようだ。

その最中、小太郎と兵衛次郎という2名が博多へ急を知らせたという。

これが、我が国と“元軍”とのファーストコンタクトであった…。


歴史は常に動いている。