北条時輔は、鎌倉五代執権・時頼の側室・讃岐局を母として生まれた。

八代執権・時宗の異母兄にあたる。

正嘉元年(1257年)、10歳の時から皇室から迎えた将軍・宗尊親王の近習として仕えていたが、
文永元年(1264年)、弟・時宗が14歳で執権の補佐役・連署に就任した時、当時17歳の時輔は京の六波羅探題南方へ出向させられたという。

この出向には、正室・葛西殿の子である時宗が執権に就任するまでの間に、得宗家に不満を持つ勢力に時輔が担ぎ上げられる危険性があったので、鎌倉から遠ざけられたという噂もある。

文永9年(1272年)2月15日、当時の六波羅探題北方に就任していた従兄弟・北条義宗が、執権・時宗の命により南方の時輔を謀反を図ったとして誅殺する。

実際、時輔がどの様な経緯で謀反の疑いをかけられたのか、今となっては知る手だては無い。

ただ、南北朝時代に成立した史書『保暦間記(ほうりゃくかんき)』には、時輔は義宗の襲撃から逃れ、行方不明になったと書かれている。

そして特筆すべきは、弘安7年(1284年)、“関東御教書”という、時輔親子の捕縛を命ずる文書が出されている事だ。

そして正応3年(1290年)、この時は既に執権・時宗が亡くなってから六年が経過していたが、時輔の次男とされる人物が謀反の罪で六波羅探題に捕縛され、斬首されたという。
ただ、その斬首された人物の名までは伝えられていないようだ。

時輔が義宗の襲撃を受け、六波羅探題南方が炎上した後、フビライからの使者・趙良弼が再びやって来る…。


歴史は常に動いている。