フビライからの使者・趙良弼が帰国した後、
文永9年(1272年)2月、執権・北条時宗の異母兄・時輔、並びに名越北条家の時章&教時が謀反を図ったという理由で誅殺された。

名越北条氏は二代執権・義時(政子の弟)の次男・朝時の家系だが、この時代の北条得宗家専制に不満を持っていたと言われており、教時は京の都から迎え入れた将軍・宗尊親王が執権・時宗によって追放された時には、これに反対し手勢を率いて得宗家との戦いも辞さずという姿勢を見せた事も有るという。

2月11日に得宗家被官である“身内人”に誅殺された時章&教時兄弟だったが、間もなく兄・時章は無実であった事がわかり、実際に手を下した得宗家身内人の5人が斬首されたのである。

その後、時章の子・公時は所領を安堵されたそうだ。

そして、名越の兄弟が誅殺された四日後、時宗の庶兄・時輔の元にも討手が迫っていた…。


歴史は常に動いている。