長兄であり大ハンであったモンケが病死しても、末弟フビライは南宋攻略を続けていた。

モンケの死の翌年(1260年)、フビライはクリルタイと呼ばれる大ハン就任の儀式を一族の出席の無いまま開き、大ハンとなる。

これが後の帝国分裂の遠因となってしまう。

1273年、南宋の重要拠点である襄陽を攻略したフビライは、ついに首都・臨安府を目指すのだが…

東シナ海に近い臨安府の海上からの補給路、あるいは脱出路となり得る海上ルートを抑える必要があった為に、フビライはついに日本へ圧力をかけ始める。

この時、日本では、北条時宗が名実共に執権となっていた。


歴史は常に動いている。