北条氏メインで書かれた『吾妻鏡』と、
京都の天台僧・慈円が書いた『愚管抄』では、鎌倉及び頼家周辺で起こった事件について、その記述に若干の違いが見られる。
『愚管抄』では病状が重くなった頼家が自身の意思で出家し、全てを嫡男・一幡に托そうとしたとされている。
それによって一幡の母方の祖父・比企能員が権力を握る事を恐れた北条時政が能員を暗殺したというのだ。
また、頼家の死についても
『吾妻鏡』では、頼家が伊豆修善寺に下向した翌年の元久元年(1204年)7月19日に、頼家死去を知らせる飛脚が鎌倉に到着したと記すのみなのだが、
『愚管抄』には、入浴中に正体不明の刺客に襲撃され、抵抗したもののやはり多勢に無勢、敢え無く最期を遂げたと書かれているのである。
このように、頼家の最期については謎が残されている。
ただ、はっきりしているのは、二代将軍頼家がその個性を発揮する事も無く早折してしまい、
当時僅か12歳になる頼家の弟・千幡が実朝と名乗って三代将軍になり、鎌倉幕府の混迷が加速して行くという事である…。
歴史は常に動いている。
京都の天台僧・慈円が書いた『愚管抄』では、鎌倉及び頼家周辺で起こった事件について、その記述に若干の違いが見られる。
『愚管抄』では病状が重くなった頼家が自身の意思で出家し、全てを嫡男・一幡に托そうとしたとされている。
それによって一幡の母方の祖父・比企能員が権力を握る事を恐れた北条時政が能員を暗殺したというのだ。
また、頼家の死についても
『吾妻鏡』では、頼家が伊豆修善寺に下向した翌年の元久元年(1204年)7月19日に、頼家死去を知らせる飛脚が鎌倉に到着したと記すのみなのだが、
『愚管抄』には、入浴中に正体不明の刺客に襲撃され、抵抗したもののやはり多勢に無勢、敢え無く最期を遂げたと書かれているのである。
このように、頼家の最期については謎が残されている。
ただ、はっきりしているのは、二代将軍頼家がその個性を発揮する事も無く早折してしまい、
当時僅か12歳になる頼家の弟・千幡が実朝と名乗って三代将軍になり、鎌倉幕府の混迷が加速して行くという事である…。
歴史は常に動いている。