比企氏滅亡に関わる記録は京側にもあり、ここには吾妻鏡とは違った記述が遺されている。
頼朝の死についても書かれていた藤原定家の日記『明月記』や、近衛家実の『猪隈関白記』によると、
建仁3年(1203年)9月7日に鎌倉から京に使者がやって来て、
“9月1日に二代将軍頼家が亡くなったので、頼家の弟・千幡の将軍就任許可を願う”
旨の要請をしたという。
当時の鎌倉から京までの行程は、約一週間。
とすると、鎌倉からの使者は
比企氏が滅亡した9月2日頃には出発していたのであろう。
しかし、この時点で頼家はまだ存命中であり、修善寺への下向もしていない。
哀れ、頼家は生きているにも拘わらず、死んだ事にされてしまったのである…。
歴史は常に動いている。
頼朝の死についても書かれていた藤原定家の日記『明月記』や、近衛家実の『猪隈関白記』によると、
建仁3年(1203年)9月7日に鎌倉から京に使者がやって来て、
“9月1日に二代将軍頼家が亡くなったので、頼家の弟・千幡の将軍就任許可を願う”
旨の要請をしたという。
当時の鎌倉から京までの行程は、約一週間。
とすると、鎌倉からの使者は
比企氏が滅亡した9月2日頃には出発していたのであろう。
しかし、この時点で頼家はまだ存命中であり、修善寺への下向もしていない。
哀れ、頼家は生きているにも拘わらず、死んだ事にされてしまったのである…。
歴史は常に動いている。