鎌倉から追放された梶原景時は、一族郎党と共に、京に向かったと言われている。

一説には、鎌倉に居場所が無くなったので、朝廷に仕えようとしていたとも言われている。

しかし、京へ赴く途中、景時一行は駿河国で襲撃を受ける。

奮戦虚しく、梶原景時一行は全滅。
頼朝の死から約一年後の事であった。

この時、景時一行を襲撃したのは、駿河の在地武士団とも、鎌倉からの追手とも言われているが、定かでは無い。

ただ、この当時の駿河国の守護は、北条政子の父・北条時政だったという。

そして『吾妻鏡』によると、梶原景時が鎌倉から追放された直後、その居館から
“甲斐源氏・武田有義を将軍として担ぎ、鎌倉に叛旗を翻す”
旨の書き付けが発見されたというのだが…。


歴史は常に動いている。