相模国一の宮で約一ヶ月の謹慎を経て、梶原景時は一時的に鎌倉に戻ったという。

景時としては、ホトボリが冷めたと思ったのだろうが、二代将軍頼家は正式に景時の追放を言い渡したらしい。

因みに、頼朝亡き後に頼家が将軍になって三ヶ月後に、訴訟の判決権を将軍の手から13人の御家人の合議に変更してしまった旨は以前書いたが、この13人の中に梶原景時も名を連ねていたのである。

頼家は亡き父と同様に、景時を“一の郎党”として頼りにしていたようだが、そんな思いに背を向けた代償は大きかったと言わざるを得ないだろう。

そして終焉へ…


歴史は常に動いている。