以前、源九郎義経の事を書いた際、頼朝による全国統治の完成まで言及したが…
正治元年(1199年)、いや、まだ建久10年と表記すべきであろうか、源頼朝が亡くなる。
相模川に架かる橋供養に出席した帰りに通った
“八的ヶ原(やまとがはら)”という所で落馬し、絶命したという。
その死について、
藤原定家の日記
『明月記』には、
“頓病”(急死)
慈円の書いた
『愚管抄』には
“所労”(病)
としか書かれていない。
当時は暗殺の噂や、義経の祟りの可能性まで囁かれたようであるが…。
当時、右大臣の職にあった近衛家実の日記
『猪隈関日記』には、若干、踏み込んだ内容が見られる。
その日記によると、晩年の頼朝の症状が
“のどが渇き、尿の通じにくくなる”
ものだったとされている。
私の同級生で内科医がいるのだが、彼に聞いたところ、この症状は
“糖尿病”
の疑いがあるという。
現代ならばインスリンを注射して対処するところであろうが、ナニブン頼朝の時代の事である。
症状の悪化を止める手立てもなく、ついにあの日、馬上で意識不明に陥り落馬したのではなかろうか?
こうして征夷大将軍の座は、頼朝の嫡男
“頼家”
が継ぐ事になるのだが、すぐに問題が発生してしまう…。
歴史は常に動いている。
正治元年(1199年)、いや、まだ建久10年と表記すべきであろうか、源頼朝が亡くなる。
相模川に架かる橋供養に出席した帰りに通った
“八的ヶ原(やまとがはら)”という所で落馬し、絶命したという。
その死について、
藤原定家の日記
『明月記』には、
“頓病”(急死)
慈円の書いた
『愚管抄』には
“所労”(病)
としか書かれていない。
当時は暗殺の噂や、義経の祟りの可能性まで囁かれたようであるが…。
当時、右大臣の職にあった近衛家実の日記
『猪隈関日記』には、若干、踏み込んだ内容が見られる。
その日記によると、晩年の頼朝の症状が
“のどが渇き、尿の通じにくくなる”
ものだったとされている。
私の同級生で内科医がいるのだが、彼に聞いたところ、この症状は
“糖尿病”
の疑いがあるという。
現代ならばインスリンを注射して対処するところであろうが、ナニブン頼朝の時代の事である。
症状の悪化を止める手立てもなく、ついにあの日、馬上で意識不明に陥り落馬したのではなかろうか?
こうして征夷大将軍の座は、頼朝の嫡男
“頼家”
が継ぐ事になるのだが、すぐに問題が発生してしまう…。
歴史は常に動いている。