日本書紀に記されていない倭から隋への遣使について、
『隋書』東夷伝倭国条には、以下のような事が書かれている。
★開皇20年(600年)、倭王から使いが来た。
倭王の姓は阿毎(アメ?)、字(アザナ)を多利思比孤(タリシヒコ)、
アホケミと号す。
★文帝が役人を通じて大興城(長安)まで来た使者に倭の風俗について尋ねると、
“倭王は天を兄、太陽を弟とする。夜明け前に王宮に出て座り、政務を執る。太陽(弟)が出ると、あとの政務は弟にまかせる。”
と答えた。
★文帝は
“全く道理にかなっていない。”
と言い、倭王の政務の執り方を改めさせる事にした。
だいたい上記の様な事が、『隋書』の中に見られる、倭国に関する初めて書かれた記述である。
しかし、前述したように、日本書紀ではこの600年の遣使については全く書かれずに、
607年の小野妹子の遣使が“第一回遣隋使”とされているのである。
その理由として一つ考えられるのは、600年の遣使が倭国にとっては“恥”と考えられた可能性である。
即ち、王が天や太陽を兄弟と呼び、日の出以降は弟(太陽)に仕事をまかせる=日中は仕事をしない…
これでは国際社会ではもはや通用しないという事を、相手から教えられてしまった=外交以前の問題が山積していた事を思い知らされた事を意味するのではなかろうか。
故に、日本書紀では600年の遣隋使は無かった事とされたと考えられる…
歴史は常に動いている。
『隋書』東夷伝倭国条には、以下のような事が書かれている。
★開皇20年(600年)、倭王から使いが来た。
倭王の姓は阿毎(アメ?)、字(アザナ)を多利思比孤(タリシヒコ)、
アホケミと号す。
★文帝が役人を通じて大興城(長安)まで来た使者に倭の風俗について尋ねると、
“倭王は天を兄、太陽を弟とする。夜明け前に王宮に出て座り、政務を執る。太陽(弟)が出ると、あとの政務は弟にまかせる。”
と答えた。
★文帝は
“全く道理にかなっていない。”
と言い、倭王の政務の執り方を改めさせる事にした。
だいたい上記の様な事が、『隋書』の中に見られる、倭国に関する初めて書かれた記述である。
しかし、前述したように、日本書紀ではこの600年の遣使については全く書かれずに、
607年の小野妹子の遣使が“第一回遣隋使”とされているのである。
その理由として一つ考えられるのは、600年の遣使が倭国にとっては“恥”と考えられた可能性である。
即ち、王が天や太陽を兄弟と呼び、日の出以降は弟(太陽)に仕事をまかせる=日中は仕事をしない…
これでは国際社会ではもはや通用しないという事を、相手から教えられてしまった=外交以前の問題が山積していた事を思い知らされた事を意味するのではなかろうか。
故に、日本書紀では600年の遣隋使は無かった事とされたと考えられる…
歴史は常に動いている。