『宋書』夷蛮伝倭国条には、478年、倭の五王の五人目“倭武”が南朝宋最後の皇帝“順帝”に奉呈したという上表文の内容が書かれている。
それは…
★東方の毛人55国、西方の衆夷66国、海を渡って北95国を征服して倭国を統一すると同時に、朝鮮半島南端まで軍事支配した。
★高句麗征討を計画した父・倭済や兄・倭興が急死したので朝貢が遅れた。
★喪明けに伴い、高句麗征討の準備を始めた。
★高句麗と同等の官爵
『開府儀同三司』を求める。
要約すると、上記のとおりである。
これに対し、順帝は“倭武”を
『使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王』
に除正したという。
これは“倭済”と同じ官職&将軍号である。
高句麗と同等の爵位は、さすがに無理であったようだ。
南朝宋にとっては、北朝魏と対峙する戦略上、第一に高句麗、第二に百済、第三に倭といった序列を考えていたらしく、高句麗や百済よりも上、もしくは同等の爵位や将軍号を倭に与える事は無かったようである。
因みに“倭武”の遣使の後、程なく南朝宋は滅亡している…
歴史は常に動いている。
それは…
★東方の毛人55国、西方の衆夷66国、海を渡って北95国を征服して倭国を統一すると同時に、朝鮮半島南端まで軍事支配した。
★高句麗征討を計画した父・倭済や兄・倭興が急死したので朝貢が遅れた。
★喪明けに伴い、高句麗征討の準備を始めた。
★高句麗と同等の官爵
『開府儀同三司』を求める。
要約すると、上記のとおりである。
これに対し、順帝は“倭武”を
『使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王』
に除正したという。
これは“倭済”と同じ官職&将軍号である。
高句麗と同等の爵位は、さすがに無理であったようだ。
南朝宋にとっては、北朝魏と対峙する戦略上、第一に高句麗、第二に百済、第三に倭といった序列を考えていたらしく、高句麗や百済よりも上、もしくは同等の爵位や将軍号を倭に与える事は無かったようである。
因みに“倭武”の遣使の後、程なく南朝宋は滅亡している…
歴史は常に動いている。