『宋書』夷蛮伝倭国条には、倭済に続いて、
462年、“倭興”から南朝宋への遣使が有ったと書かれている。
この時、“倭興”は先代の“倭済”や、先々代の“倭珍”の様に『都督~諸軍事』といった、他国の軍事的支配権を求めなかったようである。
結果、『安東将軍・倭国王』という、南朝宋の将軍号としては一番格下の官職だけに留まったという。
倭興の朝貢の姿勢には、先代の倭済との温度差を感じてしまうのは、私だけであろうか…
歴史は常に動いている。
462年、“倭興”から南朝宋への遣使が有ったと書かれている。
この時、“倭興”は先代の“倭済”や、先々代の“倭珍”の様に『都督~諸軍事』といった、他国の軍事的支配権を求めなかったようである。
結果、『安東将軍・倭国王』という、南朝宋の将軍号としては一番格下の官職だけに留まったという。
倭興の朝貢の姿勢には、先代の倭済との温度差を感じてしまうのは、私だけであろうか…
歴史は常に動いている。