後漢書東夷伝倭人条には、AD57年に続いて、このような記述がある。
“安帝の永初元年
倭の国王帥升等
生口160人を献じ
請見を願う。”
AD106年に即位した後漢の安帝の時代、
AD107年に倭の国王“帥升”が160人の奴隷を安帝に献上して謁見を願い出たという事である。
倭国王帥升…この帥升というのが、大陸の正史に初めて出て来る倭人の名前と解釈して良いのではなかろうか。
そして“倭国王”という記述は、後漢側は帥升を倭国全体の王であると考えていた事を意味しているのであろうか。
ただし、AD107年のこの時、倭国王帥升が安帝から印綬等を授かったという記録はどこにも残っていない。
初めて名前が出た倭人でありながら、倭国王帥升については意外と謎が多いと同時に、あまり教科書にも出て来る事も無いのである…
歴史は常に動いている。
“安帝の永初元年
倭の国王帥升等
生口160人を献じ
請見を願う。”
AD106年に即位した後漢の安帝の時代、
AD107年に倭の国王“帥升”が160人の奴隷を安帝に献上して謁見を願い出たという事である。
倭国王帥升…この帥升というのが、大陸の正史に初めて出て来る倭人の名前と解釈して良いのではなかろうか。
そして“倭国王”という記述は、後漢側は帥升を倭国全体の王であると考えていた事を意味しているのであろうか。
ただし、AD107年のこの時、倭国王帥升が安帝から印綬等を授かったという記録はどこにも残っていない。
初めて名前が出た倭人でありながら、倭国王帥升については意外と謎が多いと同時に、あまり教科書にも出て来る事も無いのである…
歴史は常に動いている。