『後漢書』の中の東夷伝には、日本列島の更なる詳細な記述がある。
『後漢書』とは、後漢のみならず、その後の三国時代を統一した“晋”さえも倒れた後の、所謂“南北朝時代”の南朝“宋”の時代、ハンヨウという人物によって編纂された物なのだが、一応は国家の正史として扱われている。
その『後漢書』東夷伝倭人条の中に、
AD57年の事として…
“建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。
使人自ら大夫と称す。
倭国の極南界なり。
光武、賜うに印綬を以ってす。”
と、ある。
後漢の初代皇帝、光武帝“劉秀”が、倭奴国に対して印綬(印章プラス印章に付けるヒモ)を与えたという事である。
因みに“倭奴国”という記述が、“倭の奴国”と読む説と、“イドコク”と読んで伊都国と考える説が有るが、両方共、現在の福岡近辺に存在した二大勢力であり、このいずれかの事である可能性が高いとされている。
歴史は常に動いている。
『後漢書』とは、後漢のみならず、その後の三国時代を統一した“晋”さえも倒れた後の、所謂“南北朝時代”の南朝“宋”の時代、ハンヨウという人物によって編纂された物なのだが、一応は国家の正史として扱われている。
その『後漢書』東夷伝倭人条の中に、
AD57年の事として…
“建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。
使人自ら大夫と称す。
倭国の極南界なり。
光武、賜うに印綬を以ってす。”
と、ある。
後漢の初代皇帝、光武帝“劉秀”が、倭奴国に対して印綬(印章プラス印章に付けるヒモ)を与えたという事である。
因みに“倭奴国”という記述が、“倭の奴国”と読む説と、“イドコク”と読んで伊都国と考える説が有るが、両方共、現在の福岡近辺に存在した二大勢力であり、このいずれかの事である可能性が高いとされている。
歴史は常に動いている。