“薬子の変”鎮圧の四日後、坂上田村麻呂と共に平城上皇の東国脱出を阻止した文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)は、かつて田村麻呂も務めた事のある“陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)”に任じられる。
そして翌年(811年)2月、自発的に蝦夷征討を上奏すると、4月には征夷将軍に任じられたという。
文室綿麻呂の征夷将軍就任を見届けた坂上田村麻呂は、その一ヶ月後に亡くなった。
享年54歳だったそうだ。
約半年後、文室綿麻呂は“ニサテ”“ヘイ”二村の蝦夷を平定した事を朝廷に報告したという。
この遠征で本州最北端に朝廷の支配が到達したと解釈されたのだろうか。
これを最後に、東北への大遠征は記録に見られなくなる。
勿論、散発的な反乱はこの後にも有るのだが、朝廷にとってこれはもはや“征討”ではなく“鎮圧”という扱いになる。
774年から始まった東北大遠征の歴史は、811年、一つの区切りを迎える。
この間の大遠征は、後に、
“三十八年戦争”
と呼ばれる事となる…
歴史は常に動いている。
そして翌年(811年)2月、自発的に蝦夷征討を上奏すると、4月には征夷将軍に任じられたという。
文室綿麻呂の征夷将軍就任を見届けた坂上田村麻呂は、その一ヶ月後に亡くなった。
享年54歳だったそうだ。
約半年後、文室綿麻呂は“ニサテ”“ヘイ”二村の蝦夷を平定した事を朝廷に報告したという。
この遠征で本州最北端に朝廷の支配が到達したと解釈されたのだろうか。
これを最後に、東北への大遠征は記録に見られなくなる。
勿論、散発的な反乱はこの後にも有るのだが、朝廷にとってこれはもはや“征討”ではなく“鎮圧”という扱いになる。
774年から始まった東北大遠征の歴史は、811年、一つの区切りを迎える。
この間の大遠征は、後に、
“三十八年戦争”
と呼ばれる事となる…
歴史は常に動いている。