平城上皇の東国への脱出を阻止した坂上田村麻呂。
僅か二日での“薬子の変”鎮圧に貢献したわけだが、この時、田村麻呂は“ある事”を条件に、迅速に軍を動かしたのである。
その“ある事”とは、当時、身柄を拘束されていた『文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)』という武人を解放し、一緒に薬子の変鎮圧に当たらせる…という事だったという。
嵯峨天皇はこの条件を受け入れ、首尾よく平城上皇の東国脱出を阻止した。
文室綿麻呂とは、坂上田村麻呂が801年に征夷大将軍に任じられ四職兼任となった時、出羽権守(でわごんのかみ)として東北に派遣されており、田村麻呂と同様に対蝦夷に尽力していた人物である。
田村麻呂はこの頃に文室綿麻呂の武勇を目の当たりにしたのであろう。
平城上皇と嵯峨天皇の対立する“二所朝廷”の状況になった時、文室綿麻呂は平城上皇派とされ、嵯峨天皇派によって逮捕監禁されたらしい。
しかし、田村麻呂の助命嘆願により解放され、薬子の変鎮圧に協力し、その後の活躍にも繋がって行くのである…
歴史は常に動いている。
僅か二日での“薬子の変”鎮圧に貢献したわけだが、この時、田村麻呂は“ある事”を条件に、迅速に軍を動かしたのである。
その“ある事”とは、当時、身柄を拘束されていた『文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)』という武人を解放し、一緒に薬子の変鎮圧に当たらせる…という事だったという。
嵯峨天皇はこの条件を受け入れ、首尾よく平城上皇の東国脱出を阻止した。
文室綿麻呂とは、坂上田村麻呂が801年に征夷大将軍に任じられ四職兼任となった時、出羽権守(でわごんのかみ)として東北に派遣されており、田村麻呂と同様に対蝦夷に尽力していた人物である。
田村麻呂はこの頃に文室綿麻呂の武勇を目の当たりにしたのであろう。
平城上皇と嵯峨天皇の対立する“二所朝廷”の状況になった時、文室綿麻呂は平城上皇派とされ、嵯峨天皇派によって逮捕監禁されたらしい。
しかし、田村麻呂の助命嘆願により解放され、薬子の変鎮圧に協力し、その後の活躍にも繋がって行くのである…
歴史は常に動いている。