大同5年(810年)9月6日。
平城上皇は旧都“平城京”への遷都を命ずる。
これに対し、嵯峨天皇は一旦、兄に従うふりをしたのだろうか。
平城京内裏造営使を任命しつつも、9月10日、伊勢・近江・美濃の国府の守備を固めると同時に、関所を封鎖したという。
9月11日、弟・嵯峨天皇のハッキリとした対決姿勢を知った平城上皇は、例の“母親”を連れて東国に脱出し、兵を募ろうと考えたらしい。
しかしながら9月12日、これに対し嵯峨天皇側は迅速に反応し、鎮圧軍を派遣し、大和国越田村近辺で平城上皇の行動を阻止する。
ついに平城上皇は東国への脱出を諦めて出家し、例の“母親”は服毒自殺したという。
この平城上皇の後宮に入った娘の“母親”こそが、『藤原薬子』であり、この騒乱は後に“薬子の変”と呼ばれる事となる。
因みにこの二日間で、平城京内裏造営使に任命され、そして二日後には大和国越田村で平城上皇の行く手を阻んだのが、この事変直前に大納言に昇進したばかりで、
平城上皇は旧都“平城京”への遷都を命ずる。
これに対し、嵯峨天皇は一旦、兄に従うふりをしたのだろうか。
平城京内裏造営使を任命しつつも、9月10日、伊勢・近江・美濃の国府の守備を固めると同時に、関所を封鎖したという。
9月11日、弟・嵯峨天皇のハッキリとした対決姿勢を知った平城上皇は、例の“母親”を連れて東国に脱出し、兵を募ろうと考えたらしい。
しかしながら9月12日、これに対し嵯峨天皇側は迅速に反応し、鎮圧軍を派遣し、大和国越田村近辺で平城上皇の行動を阻止する。
ついに平城上皇は東国への脱出を諦めて出家し、例の“母親”は服毒自殺したという。
この平城上皇の後宮に入った娘の“母親”こそが、『藤原薬子』であり、この騒乱は後に“薬子の変”と呼ばれる事となる。
因みにこの二日間で、平城京内裏造営使に任命され、そして二日後には大和国越田村で平城上皇の行く手を阻んだのが、この事変直前に大納言に昇進したばかりで、
右近衛大将も兼任していた
『坂上田村麻呂』だったのである。
教科書ではあまり触れられる事の無い事実…
歴史は常に動いている。
『坂上田村麻呂』だったのである。
教科書ではあまり触れられる事の無い事実…
歴史は常に動いている。