802年、坂上田村麻呂は捕虜となったアテルイ及びモレを伴って平安京に戻る。
この時、田村麻呂は朝廷に対し、二人の助命を嘆願したという。
日本後紀には、その理由までは触れられてはいないものの、田村麻呂は約7年に渡る交戦並びに交渉の中で、蝦夷と呼ばれる人々が、何故、多賀城攻撃から始まる“反乱”とされる行為に到ったのか、その事情に理解を示したのかも知れない。
同時に、長い間鎮圧軍を退け続けた“武勇”にも感服する所が有ったのだろう。
しかし、12年にも渡って朝廷軍を翻弄し続けたアテルイとモレに対する都の公卿達の態度はやはり冷たかったようで、結局田村麻呂の願いも虚しく斬首されたそうである。
歴史は常に動いている。
この時、田村麻呂は朝廷に対し、二人の助命を嘆願したという。
日本後紀には、その理由までは触れられてはいないものの、田村麻呂は約7年に渡る交戦並びに交渉の中で、蝦夷と呼ばれる人々が、何故、多賀城攻撃から始まる“反乱”とされる行為に到ったのか、その事情に理解を示したのかも知れない。
同時に、長い間鎮圧軍を退け続けた“武勇”にも感服する所が有ったのだろう。
しかし、12年にも渡って朝廷軍を翻弄し続けたアテルイとモレに対する都の公卿達の態度はやはり冷たかったようで、結局田村麻呂の願いも虚しく斬首されたそうである。
歴史は常に動いている。