以前、南九州に居住し長く朝廷に服属しなかった“隼人(はやと)”と呼ばれた人々について書いた事がある。

実はこの“隼人”、大隅や日向、南西諸島等、各地域毎に独立した部族だったようで、決して統一集団では無かったようである。

早々と朝廷に服属した地域もあれば、朝廷を無視し続けた地域もあったようだ。

ところが、奈良時代に入ると隼人の大規模な反乱が起こる。

続日本紀(しょくにほんぎ)によると、養老4年(720年)2月29日に大隅国守・陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)が殺害される。

これに対し、朝廷は素早く反応し、3月4日には万葉集に複数の和歌が収められている大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、同月中には隼人が篭る七箇所の砦を1万人以上の兵で攻略。隼人側は捕虜&戦死者合わせて1400程度。6月には完全に鎮圧されたらしい。

この大規模な蜂起の背景には、朝廷がそれまで南九州在住の隼人にまかせていた地方統治権を否定し、直接支配をしようとした事が一因だと言われている。

更には、水田を作り難い南九州の土地柄、男子ニ段(ニタン)とされた口分田の支給がおぼつかなかった事にも起因するとも言われている。

因みに、この大規模な隼人の乱が起こった年に、あの藤原不比等が62歳でこの世を去った事は、おそらく何の因果関係も無いようである…


歴史は常に動いている。