ここまで、中臣鎌足が百済王子・余豊璋ではないかと疑うキッカケとなった傍証について考えてきたが、最後に小さな事実を、ひとつ。

鎌足=余豊璋?説とは直接関係の無い話ではあるが、日本書紀にほんの少しだけ触れられている事。

それは、鎌足の“死に様”。

死の直前、
『鎌足の館に落雷があった。』
と、国家の正史がわざわざ書いているのである。

古来、『雷』とは『神』の力の象徴と考えられてきたが、落雷の後、ほどなく鎌足が息を引き取ったという記述はすなわち、
“祟り”
によって死んだと、誰もが思ったという事を示唆しているのではないだろうか?

そして誰もが“祟り”と考えるくらい、鎌足にはヤマシイ事があったとは考えられないだろうか?

因みに誰の祟りかと言えば、それは勿論『蘇我入鹿』だろう。

死に様は生き様…

しかし、すべては記録から導き出した推論である。


歴史は常に動いている。