奇妙な一致について、ひとつ。

中臣鎌足が死の二日前に“藤原”姓を賜ってから後、藤原家の権力が強かった時と弱かった時、外交政策には明らかに違いが出て来る。

簡単に言えば、藤原氏が権力を持った時代は親百済外交、藤原氏の権力が後退すると親新羅・唐外交が顕著になってくるのである。

日本書紀によれば、応神天皇の頃から日本(倭)は百済と結び、新羅に対抗するという状況があったという。

そんな中、蘇我馬子・厩戸皇子(聖徳太子)の時代になると親新羅・高句麗・隋外交が展開されるようになる。

これは一種の改革だったと言えよう。

しかし、乙巳の変で蘇我本家が滅亡すると百済復興の為に白村江へ出兵~敗戦。

その後、中臣鎌足・天智天皇~大友皇子ライン没後の天武天皇による皇親政治の時代には親新羅外交、しかし天武亡き後に藤原不比等が権力を掌握すると滅亡した百済系渡来人が重用されたとか。

不比等の四人の子が天然痘で全滅した頃には橘諸兄が権力の頂点に立ち、百済系渡来人は遠ざけられるも、孫・藤原仲麻呂が権力を握ると新羅征討まで計画されていた。

この様に、藤原vs反藤原のパワーバランスによって外交政策が変わる遠因に、藤原初代の鎌足が百済王子・余豊璋と同一人物…という事が絡んでいるとしたら?

物証の無い、推論にすぎない事ではあるが…。


歴史は常に動いている。