死の間際、鎌足は天智天皇(中大兄皇子)に対し、
『自分は軍事面で全く貢献出来なかった…。』
と、詫びていたらしい。

白村江の戦い直前から敗戦まで、姿を消しておきながら何をか言わんや!
である。

軍事的な功績を残す最大のチャンスであったはずなのに。

かつて、祭祀のトップ“神祇伯”の座に着く事を断った理由…もし、中臣鎌足と余豊璋が同一人物であったとするならば、合点が行く。

滅亡した祖国『百済』復興の為には、人々から見えない所で祭祀をする事よりも、誰の目にも触れる様に軍勢を率いて新羅と戦う事を望んでいたからかも知れない。


歴史は常に動いている。