さて、それでは中臣鎌足のもう一つの顔について推理してみよう。

日本書紀の記述を調べてみると、鎌足が複数の皇族の周辺に接近し始めた頃に来日し、白村江の戦い前、鎌足が姿を消した頃に離日した人物がいる。

それが百済への援助の見返りに、人質として日本に来ていた百済王子『余豊璋』だ。

余豊璋は鎌足が姿を消している間、東アジア全体に関わる外交~戦争の中で派手に活動し、白村江の敗戦と共に高句麗へ逃亡~行方不明になる。

直後、中臣鎌足は何事も無かったかのように再登場。
その5年後(668年)には“近江令”編纂という大仕事を任されている。

以上、編年体で書かれた日本の正史“日本書紀”の記述から浮かび上がって来た事実から導き出される推測…

それは…

『中臣鎌足』と『余豊璋』は同一人物!

無論、物的証拠は何も無い。
あくまでも推論である。

この推論を補う傍証を調べてみよう。


歴史は常に動いている。