日本書紀によれば、
中臣鎌足が我が国の歴史に初めて登場したのが皇極3年(644年)の事。

皇極天皇はそれまで全く名前の上がった事の無いこの人物を、いきなり神道祭祀のトップに任命しようとし、それまで存在しなかった“神祇伯”という役職を用意したという。

しかしながら、鎌足はこの職を固辞したようだ。

因みに中臣氏の氏神は、春日大社に祭られている
アメノコヤネ・タケミカヅチ・フツヌシ
なのだが、なぜか日本書紀は神代から鎌足にまで到る系譜には全く触れていない。

日本書紀編纂には鎌足の息子・藤原不比等も関わっていたわけで、だからこそ“乙巳の変”~“大化の改新”での父の功績を称えたのである。

とすると、神代から鎌足までの系譜や中臣氏の活躍を何故書かなかったのか?

まさか書き漏らした等と言う事はあるまい。

これにはそれなりの理由がありそうだ。

例えば、当時の誰もが知っていたくらい鎌足の出自が怪しかったとか…?


歴史は常に動いている。