ここで、中大兄皇子最大の危機となった『白村江の戦い』について…。

義務教育の歴史教科書に記載されていたであろう、この海戦、言葉としては知っていても、その発端や内容まで覚えている方はなかなか居ないのではないだろうか?

日本書紀によると、
631年、新羅との関係が緊張状態であった百済から日本への援助要請があり、百済王子“余豊璋”が人質として来日。

642年、クーデターにより高句麗の政権を奪取した泉蓋蘇文と百済の義慈王が結び、新羅を攻撃。

654年、新羅の救援要請を受けた唐の参戦。

660年、唐・新羅連合軍の前に百済滅亡。

直後、百済の王族・鬼室福信が、日本にいる余豊璋を擁立して百済復興を目指す為に、余豊璋返還及び日本からの軍事援助を要請。

663年、日本から27000人を朝鮮半島に派兵。
しかし、鬼室福信が余豊璋と対立して暗殺され、更に日本の将と百済の将の意見対立もあり、日本からの援軍は、白村江で唐の水軍に対し正面突破を試みるも大敗。

余豊璋は高句麗方面に逃亡の後、行方不明に。

結果、百済復興計画は失敗に終わる。

この後、唐から日本への追撃の可能性が十分に考えられたので、北九州から瀬戸内海を経て畿内に到るまでの各地に防衛用の砦を慌てて築くようになる…


これが、斉明天皇亡き後、日本の指揮を取った中大兄皇子最大の危機のあらましである。

幸か不幸か、白村江の戦いの後、今度は半島の支配権を巡り唐と新羅が対立した為に、唐軍が畿内にまで攻め込む事態にまでは到らなかったものの、先のブログにも書いたとおり、この非常事態において中大兄皇子の右腕たる中臣鎌足が一切出て来ないのである。

この謎を探ってみたい。


歴史は常に動いている。