渤海からの使者が十三湊まで来るルートは、現在のウラジオストク・アムール川の河口から大陸の海岸沿いを北上、樺太(サハリン)に近づいてからUターンするように北海道の日本海沿いを南下していたらしい。
帰りも同じコースを逆に辿っていたのだろう。

北海道の日本海側、稚内に到るまでの小さな港にも義経伝説が遺されているようだが、そのほとんどが
『義経がここから舟に乗った。』
という物だ。
そしてその手の話は、稚内を北端としているらしい。

おそらく義経主従は、渤海使とほぼ同じ航路で大陸を目指したのではなかろうか。

当時のアムール川流域では砂金が豊富に採れ、体の大きな大陸の馬も産出していたらしい。

長く平泉で生活していた義経は、奥州藤原氏が貿易によって金や大陸馬を得ていた事を当然知っていたのだろう。
再起を期して、金や馬が豊富にある大陸を目指したに違いない。

しかしながら、ここで義経伝説は完全に途絶える。

うまく船出をしたものの、大陸に辿り着けずに海の藻屑となってしまったのかも知れない。

或いは、大陸に辿り着いたものの、日本は既に鎌倉幕府による支配態勢が完了したと、大陸と貿易をしていたアイヌ民族を通じて知らされ、日本に戻る場所は無いと悟ってアムール川流域で静かに暮らす道を選んだのか。

いずれにせよ、現在これ以上の事は残念ながら解らない。

もし大陸で義経の痕跡が発見されたとしたら、また話は別なのだが…。


歴史は常に動いている。