義経が平泉から更に北へ逃げ延びたとして、逃げ切れる見込みは有ったのだろうか?
ここにひとつ、面白い物がある。
陸奥の国府“多賀城”跡にある“多賀城碑”に刻まれている、多賀城から各地へ行く里程だ。
この多賀城碑、762年に建てられた物だそうだが、そこに書かれている里程が、
平城京(奈良)まで1500里
蝦夷国まで120里
常陸国まで412里
下野国まで274里
靺鞨(まつかつ)国まで3000里
と、なっている。
一番最後のマツカツ国とはどこなのか?アナタはおわかりだろうか?
これは日本国外、朝鮮半島北部に存在した渤海(ぼっかい)の事だという。
奈良時代から平安時代前半にかけて、実際に渤海からは合計34回の使者が来て、日本から返礼もしていたらしい。
渤海からの使者の上陸地点は現在の青森県西岸の十三湊だったと聞く。
この十三湊、後に津波で壊滅するまでは、当時の西国一の国際港・博多に匹敵する巨大国際港で、大型船の往来もかなりあったそうである。
この様に、奥州では義経の時代より400年も前から海外との交易があり、場合によっては海外逃亡までもが十分に可能な環境が整っていたと言えよう。
歴史は常に動いている。
ここにひとつ、面白い物がある。
陸奥の国府“多賀城”跡にある“多賀城碑”に刻まれている、多賀城から各地へ行く里程だ。
この多賀城碑、762年に建てられた物だそうだが、そこに書かれている里程が、
平城京(奈良)まで1500里
蝦夷国まで120里
常陸国まで412里
下野国まで274里
靺鞨(まつかつ)国まで3000里
と、なっている。
一番最後のマツカツ国とはどこなのか?アナタはおわかりだろうか?
これは日本国外、朝鮮半島北部に存在した渤海(ぼっかい)の事だという。
奈良時代から平安時代前半にかけて、実際に渤海からは合計34回の使者が来て、日本から返礼もしていたらしい。
渤海からの使者の上陸地点は現在の青森県西岸の十三湊だったと聞く。
この十三湊、後に津波で壊滅するまでは、当時の西国一の国際港・博多に匹敵する巨大国際港で、大型船の往来もかなりあったそうである。
この様に、奥州では義経の時代より400年も前から海外との交易があり、場合によっては海外逃亡までもが十分に可能な環境が整っていたと言えよう。
歴史は常に動いている。