奥州平泉、中尊寺にある“金色堂”。

この金色堂の下に、藤原四代のミイラが眠っていた。

初代・清衡、二代・基衡、三代・秀衡、
そして秀衡の三男・忠衡の首。

秀衡の遺言を守って、義経を大将として鎌倉と戦おうとした三男・忠衡は秀衡の隣に葬られ、鎌倉からの圧力に屈して遺言に背き義経を裏切った泰衡は金色堂には葬られなかった…

と、伝えられ、だれもがそう思っていた。

昭和20年代までは!

聞くところによると、昭和25年から朝日新聞社がスポンサーとなって行われた学術調査の結果、秀衡の近くに葬られていた首は、なんと泰衡だった事が科学的に判明したという。

この時、史学会は騒然となったとか。

私はさすがに医学的、並びに生物学的な判断はできないが、あの首が忠衡ではなく泰衡であった事は間違いないだろう。
私の記憶が正しければ、金色堂の隣で上映されていた解説VTRでも、この時の学術調査について言及されていた。

父・秀衡の遺言を守ろうとした忠衡は金色堂に葬られ、遺言に背いた泰衡は金色堂に入れて貰えなかったというのは、迷信と言うか俗説・都市伝説的な話だったようだ。

泰衡は父の遺言に背き、義経を裏切ったわけではなかった、と考えられないだろうか?

更に調査をしてみたい。


歴史は常に動いている。