先のブログでも触れたとおり、鎌倉幕府の正史“吾妻鏡”によれば、衣川の高館で義経が藤原泰衡に急襲され自害したとされるのは
文治5年(1189年)4月30日。
そして、当時の平泉から鎌倉までの行程が10日程と言われていた時代に、何故か義経の首と証される物が鎌倉に到着したのが、一ヶ月以上も経過した
6月13日。
焼けた上に腐敗が進んでいたそうだ。
もはや誰の首だか解らなくなっていたのではなかろうか。
頼朝から『義経を匿う=鎌倉に敵対心有り。』という激しい圧力を受けていた奥州藤原氏新当主の泰衡は、頼朝に反抗する気が無いとアピールする為にも、
できるだけ早く鎌倉に義経の首を届けてしかるべきであろう。
にもかかわらず、何故、ここまで“時間稼ぎ”とも思える程、首級を届けるのが遅れたのか?
また、衣川を急襲したとされるのは、義経にとっては味方だったはずの泰衡だ。
油断していた所に輪をかけての、全くもっての多勢に無勢。
義経側には火を放って自害できるまで持ちこたえられる程の兵力など無かったはずである。
非常に不自然極まりない。
“弁慶の立ち往生”伝説は、この不自然な焼け首を説明する為に作られた“こじつけ”ではないのか?
では、『焼けた上に腐敗した首』が義経ではなかったとすれば、いったい誰の首だったのか?
ひとつ、宮城県の
江浦藻山(つくもざん)信楽寺(しがらじ)の跡地に、
“源祖義経神霊身替杉目太郎行信碑”
という物があるそうだ。
杉目太郎という人物は、佐藤継信・忠信兄弟同様に若い頃から平泉の藤原秀衡に仕え、義経とも遊び仲間だったと言われている忠臣である。
しかも、風貌が義経と似ていたので、要所ではよく影武者的な役割も果たしていたらしい。
更に調査をすすめてみたい。
歴史は常に動いている。
文治5年(1189年)4月30日。
そして、当時の平泉から鎌倉までの行程が10日程と言われていた時代に、何故か義経の首と証される物が鎌倉に到着したのが、一ヶ月以上も経過した
6月13日。
焼けた上に腐敗が進んでいたそうだ。
もはや誰の首だか解らなくなっていたのではなかろうか。
頼朝から『義経を匿う=鎌倉に敵対心有り。』という激しい圧力を受けていた奥州藤原氏新当主の泰衡は、頼朝に反抗する気が無いとアピールする為にも、
できるだけ早く鎌倉に義経の首を届けてしかるべきであろう。
にもかかわらず、何故、ここまで“時間稼ぎ”とも思える程、首級を届けるのが遅れたのか?
また、衣川を急襲したとされるのは、義経にとっては味方だったはずの泰衡だ。
油断していた所に輪をかけての、全くもっての多勢に無勢。
義経側には火を放って自害できるまで持ちこたえられる程の兵力など無かったはずである。
非常に不自然極まりない。
“弁慶の立ち往生”伝説は、この不自然な焼け首を説明する為に作られた“こじつけ”ではないのか?
では、『焼けた上に腐敗した首』が義経ではなかったとすれば、いったい誰の首だったのか?
ひとつ、宮城県の
江浦藻山(つくもざん)信楽寺(しがらじ)の跡地に、
“源祖義経神霊身替杉目太郎行信碑”
という物があるそうだ。
杉目太郎という人物は、佐藤継信・忠信兄弟同様に若い頃から平泉の藤原秀衡に仕え、義経とも遊び仲間だったと言われている忠臣である。
しかも、風貌が義経と似ていたので、要所ではよく影武者的な役割も果たしていたらしい。
更に調査をすすめてみたい。
歴史は常に動いている。