源九郎義経が衣川では死なずに逃走していたという話は、古今を問わず、かなり語られている。

因みに、義経が衣川で死んだという話は鎌倉幕府の正史“吾妻鏡”に書かれている事なのだが、これは奥州藤原氏四代目の泰衡からの報告を鵜呑みにしただけの記録であり、残念ながら他の傍証が無いのが現実だ。

そして江戸時代の学者、本居宣長や新井白石、そして大日本史を編纂した徳川光圀までもが、衣川での義経死亡に疑問を呈している。

その根拠は概ね、先のブログにも書いたとおり、まともな首実検がされていない事が上げられているようだ。

そんな話の最たる物が、
『義経は大陸に渡ってジンギスカンになった』
という話である。

因みに、モンゴルの英雄ジンギスカンは、その家系~誕生~ユーラシア統一~死に到るまでがはっきりしていて、義経が入れ代わる隙は無い。

それでは何故、義経=ジンギスカン説がここまで大きくなってしまったのだろうか?

実はその元は、明治18年にイギリスで発表された
“義経再興記”
という論文にあるらしい。

その後、ここに書かれた義経=ジンギスカン説を読んだ複数の作家がこの説を元に相次いで作品を発表し、日露戦争であの大国ロシアをも退けた日本国民の間で大人気になったという。

だが、この“義経再興記”、実は、逓信大臣や内務大臣を歴任した末松謙澄が若い頃に留学していたイギリスで差別扱いされた腹いせに、
『ヨーロッパで今でも恐れられているジンギスカンが、実は日本人だった。』
という話を“作り”、匿名で発表した物だと告白してしまった。

これで義経=ジンギスカン説は完全に崩れ去ったと言えよう。

因みに、かつてヨーロッパでは、ユーラシアを破竹の勢いで席巻したモンゴル騎馬軍団を率いるジンギスカンの恐ろしさを代々語り継いできたのだろうか、言う事を聞かない子供を諌める時に、日本で“鬼”や“なまはげ”という事例を出すのと同様に、“モンゴルに連れ去られるぞ”とか“ジンギスカンが来るぞ”という表現を使っていたらしい。

ともかく、義経=ジンギスカン説は消えはしたが、それでも義経は衣川では死んでいないと思われる。

次回から少しずつ傍証と共に推理してみたい。


歴史は常に動いている。