兄弟の間の“思い”の差によって少しずつ深くなっていった溝。

壇之浦で平家を倒した直後、鎌倉に届けられた梶原景時の合戦報告…

※今回の勝利は全員の力の結集の結果であるのに、義経殿は一人で成し遂げたと得意顔になっていて、将兵は皆困惑している。

※この勝利で自信を持った義経殿は西国武士と奥州を動かして鎌倉殿をも倒そうとする野心がある。

要約するとこの二点を軸とする報告書が決定打となり、義経は鎌倉から追われる身となってしまう。

この時、鎌倉の重臣や西国武士の中から
『梶原の報告は大袈裟で、言い過ぎだ。』
等と言って、義経をかばう者が一人も出なかった理由は、先のブログでも触れたとおりだ。

鎌倉幕府の正史“吾妻鏡”によれば、最終的に義経は奥州藤原氏四代目の泰衡に“裏切られ”、炎上する衣川高館で自害したとされている。

ただ、これは泰衡からの報告を記載しただけで、鎌倉側は誰ひとり義経の死を確認していない。

“義経の首”と称する物が鎌倉に届けられたと言うが、この首は焼けた上に腐敗していて、もはや誰の首だか判別できなかったと聞く。

因みに、当時の記録では平泉から鎌倉までは十日程の行程だったそうだが、
吾妻鏡を信じれば、文治5年(1189年)4月30日に自害した義経の首と称する物が鎌倉に到着したのは、何故か一ヶ月以上経った6月13日の事だったと言う。

この一点だけでも非常に不自然な事だが、義経の衣川での死の真相、アナタは如何に考えるだろうか?

これはまたいずれ、別の機会に考えてみたい。


歴史は常に動いている。