義経亡き後、世の人々の間には“判官びいき”なる意識が芽生えるわけだが、源平の戦いがあった当時はどうだったのか?


同じ源氏一族である木曽義仲が京都から平家を追い出した後、今度は義仲の兵が京都で略奪等の傍若無人な振る舞いを始めた時、義仲を討ったのが義経だった。

この時、京の人々は義経に対し拍手喝采を贈ったという。

その一年四ヶ月後、今度は壇之浦で平家を敗り捕虜を連れて京都に凱旋すると、またも人々は拍手喝采で義経を迎えたという。

この二回が、おそらく義経の人生の絶頂期だったに違いない。

頼朝と初の対面を果たした後、この二回の絶頂期以外、おそらく義経人気はかなり酷い物だったのではないだろうか。

先のブログでも触れた事だが、義経は自分は鎌倉殿の弟であるから特別待遇されて当然だという態度が表に出過ぎていたフシがある。

結果、父・義朝の宿将達や頼朝の腹心達から嫌われてしまったのだろう。

こんな事にならない様に、義経は“根回し”格好良く言えば“ロビィ活動”をしておくべきだったのだろうが、やはり『特別待遇当たり前』な考えが邪魔をしたようだ。

義経は、弁慶や佐藤兄弟、金売り吉次ら自分の腹心は大切にしていたらしい。
なにしろ彼等は、義経が衣川で倒れるまで誰ひとり裏切る事無く行動を共にしたのだから。

しかし、全国の武士団はどうだったのか?

頼朝が義経追討を命じた時、誰ひとりとして義経に加担する者が居なかったのである。
義経の背後には奥州の軍勢が付いているのだから、平家を倒したカリスマ的大将を担いで、うまくすれば鎌倉殿さえ倒せたかもしれないのに。

義経が『自分は特別待遇』意識を持たずに、もっと頼朝の腹心達と打ち解けていれば、また違う結果になったのだろうが。

まだまだ深く探ってみよう。


歴史は常に動いている。