義経が何故、兄・頼朝の考えとは違う“勝手な行動”を取ったのか?

当時の武士は、朝廷から官位を受領する事によって自分の地位や領地を守ろうとした。

ところが頼朝はその上を行く考え、“武家政権”の樹立を目指したのだ。

全国の武士がバラバラに朝廷から官位を貰っているうちは、たとえ平家を倒したとしても、源氏を含めた全ての武士は、天皇の下に同列に居並ぶという旧態依然のままだ。

この制度を頼朝は打破したかったに違いない。

朝廷からの官位を望む場合、全て鎌倉を通せと言ったのである。
こうする事により、自分が武力だけでなく政治的にも全国の武士を統治できると考えていたようである。

ところが、義経は平家打倒成った後、頼朝に無断で朝廷がくれると言った官位を受けてしまう。

これでは頼朝も立場が無い。他の武士団に宣言した“官位”を受ける際の新ルールを、いきなり鎌倉殿の弟が破ったのだ。頼朝は激怒したに違いない。

しかし、義経は兄のそんな新しい考えを知る由も無い。自分が官位を受けるのは源氏にとって名誉な事のはずなのに、頼朝が怒る理由が解らなかったらしい。
ずっと他人から特別扱いされて育った義経、マサに政治音痴と言うべきか…。
ただ、こんな政治音痴については義経を責めるのは酷かも知れない。

平泉から富士川に馳せ参じてからずっと戦場に駆り出されていた義経に、大人の“政治”という物を学ぶ暇は無かっただろうから。

また、頼朝の方も義経に自分の政治的意図の内容を話しておくべきだったのだろうが、まさか弟がそこまで政治音痴だとは思いもよらぬ事だったのかも知れない。

兄弟でありながら、お互いの思う“常識”を知らないままだった事が、悲劇に拍車をかけたのだろう。

仲たがいの原因はこれだけでは無い。

次回は頼朝と義経の“常識”の温度差を考えてみたい。


歴史は常に動いている。