富士川での兄弟初対面の後、頼朝は義経を他の家臣と同様に扱った。

当時の源氏の家臣団は、先代の棟梁・義朝の頃からの宿老ばかりであり、決して頼朝の力でまとめあげたわけでは無かったようだ。
それでも彼等が富士川に馳せ参じたという事は、ひとえに亡き義朝のカリスマ性の成せる業であろう。
裏を返せば、頼朝自身に何の実績も無い以上、小さなほころびによって簡単に瓦解するかも知れない、危ういバランスの上にある家臣団だったとも言えよう。

よって、たとえ弟と言えども、まだ源氏政権が盤石では無いこの時期に、急に現れた若者を特別扱いする訳にはいかなかったのである。

ところが、自分は鎌倉殿の弟だから特別な存在だと思っていた義経は、兄・頼朝が気にするそんな事情が解らなかったらしい。

ひとつ、こんな具体例がある。

鶴岡八幡宮境内の若宮殿が完成した時の事。
この仕事をした大工に頼朝から馬が与えられたという。
頼朝はその馬を引く役を義経にやらせようとしたところ、もっと下の者がやるべきだと拒否したらしい。
それに対し頼朝は、他の家臣団が見ている前で義経を叱責し、結果、驚いた義経は慌てて馬を引いたとか。

義経は鞍馬山から奥州にいたるまで、長い間、源氏の亡き棟梁・義朝の子だという理由だけで、他人から特別扱いされて育って来た。
故に、よもや兄から家臣扱いされるとは思っていなかったのだろう。

この意識の差が、後のいさかいの原因の一つになったと言えよう。

次は、更なる具体例に迫ってみたい。


歴史は常に動いている。