前回に続き、元禄赤穂事件について。
法学をかじった事のある私の見解ではあるが、当時の大目付の取り調べの結果を基に、事件を整理してみたい。
[動機は?]
不明。
加害者・浅野長矩は黙秘したまま切腹。
被害者・吉良義央も理由不明との答え。
事件直前、浅野長矩が発した
「遺恨、覚えたか!」
という言葉についても、加害者は黙秘。被害者も遺恨の意味がわからないと供述。
※加害者・浅野長矩とツーカーの関係だった家老・大石内蔵助も、事件後に
「何故、殿があんな事をしたのか理解できない。」
と漏らしていた。
[殺意の有無は?]
無し。
江戸城内で所持を許されていた刀は“六寸差し”と呼ばれる、
刃渡り僅か18cm程度の、脇差しとしても最短の刃物。
これで相手を殺すつもりならば、突くべきだが、浅野長矩は烏帽子をかぶった吉良義央の頭上から斬り降ろし、逃げようとして背を向けた被害者に対しても突かずに肩から斬り降ろしている。
“突き”では無く“斬激”で絶命させるつもりならば、頸動脈を狙って横向きもしくは斜めの斬激を行うべきだが、その痕跡も無し。
よって、怪我をさせる意思は見て取れるものの、明確な殺意までは認定できず。
故にこれは“殺人未遂罪”では無く、“傷害罪”。
[何故、浅野長矩だけが即日切腹?]
吉良義央が刀に手もかけずに斬られ、尚且つ逃げようと背を向けた挙句に背中にまで傷を負った事を、江戸市中では
“武士にあるまじき恥ずべき行為”
とする風潮が高かった。
更に言えば、武士同士の私闘に対し
“ケンカ両成敗”
の原則が適用されず。
それでも、言葉は悪いがたかが“傷害罪”の浅野長矩だけを自供も引き出せず、原因不明のまま即日切腹させた理由の正当性を無理矢理求めるならば…
明治維新後の表現方法を借りる事になるが、加害者・浅野長矩には
“不敬罪”を適用。
すなわち、帝からの勅使が数時間後に通る事が決定していた“松の大廊下”を、血で汚したから…帝に対する礼節を欠いた行為だとする拡大解釈。
因みに、勅使饗応の作法を浅野長矩に教えた吉良義央が、その見返りの金品が少なかったから…とか、吉良家が浅野家に対して製塩方法を聞いても教えなかったから…という理由で、“吉良の浅野イジメ”が有ったという話は、あくまでも事件後に江戸市中で出回った噂話を、歌舞伎や講談で大袈裟に拡げただけの事であり、大目付調書によれば原因は不明のままであり、イジメの事実も確認できていない。
ついでながら客観的事実を調べると、元禄13年、浅野長矩は勅使饗応役に任じられたわけだが、実はこの時は二度目の饗応役であり、過去に同じ経験がある以上、この時に殊更吉良義央に教えてもらう必要は無かったはずだとか。
製塩方法にしても、当時の吉良家の領地は決して財政逼迫していたわけでも無く、何も製塩に手を出す必要性も無かったわけで、浅野家側からしても自国の“特産品”の作り方を聞かれたからと言っておいそれと教えないのは当然であるとか。
勅使饗応の作法を教える見返りに製塩方法を…という“いかにも”な講談ネタも有るが、各地の“特産品”の“製法”だけは別物だったから現実的な話では無いとされている。
さて、この不可解裁定の裏には何があったのか?
また次回に考えてみたい。
歴史は常に動いている。
法学をかじった事のある私の見解ではあるが、当時の大目付の取り調べの結果を基に、事件を整理してみたい。
[動機は?]
不明。
加害者・浅野長矩は黙秘したまま切腹。
被害者・吉良義央も理由不明との答え。
事件直前、浅野長矩が発した
「遺恨、覚えたか!」
という言葉についても、加害者は黙秘。被害者も遺恨の意味がわからないと供述。
※加害者・浅野長矩とツーカーの関係だった家老・大石内蔵助も、事件後に
「何故、殿があんな事をしたのか理解できない。」
と漏らしていた。
[殺意の有無は?]
無し。
江戸城内で所持を許されていた刀は“六寸差し”と呼ばれる、
刃渡り僅か18cm程度の、脇差しとしても最短の刃物。
これで相手を殺すつもりならば、突くべきだが、浅野長矩は烏帽子をかぶった吉良義央の頭上から斬り降ろし、逃げようとして背を向けた被害者に対しても突かずに肩から斬り降ろしている。
“突き”では無く“斬激”で絶命させるつもりならば、頸動脈を狙って横向きもしくは斜めの斬激を行うべきだが、その痕跡も無し。
よって、怪我をさせる意思は見て取れるものの、明確な殺意までは認定できず。
故にこれは“殺人未遂罪”では無く、“傷害罪”。
[何故、浅野長矩だけが即日切腹?]
吉良義央が刀に手もかけずに斬られ、尚且つ逃げようと背を向けた挙句に背中にまで傷を負った事を、江戸市中では
“武士にあるまじき恥ずべき行為”
とする風潮が高かった。
更に言えば、武士同士の私闘に対し
“ケンカ両成敗”
の原則が適用されず。
それでも、言葉は悪いがたかが“傷害罪”の浅野長矩だけを自供も引き出せず、原因不明のまま即日切腹させた理由の正当性を無理矢理求めるならば…
明治維新後の表現方法を借りる事になるが、加害者・浅野長矩には
“不敬罪”を適用。
すなわち、帝からの勅使が数時間後に通る事が決定していた“松の大廊下”を、血で汚したから…帝に対する礼節を欠いた行為だとする拡大解釈。
因みに、勅使饗応の作法を浅野長矩に教えた吉良義央が、その見返りの金品が少なかったから…とか、吉良家が浅野家に対して製塩方法を聞いても教えなかったから…という理由で、“吉良の浅野イジメ”が有ったという話は、あくまでも事件後に江戸市中で出回った噂話を、歌舞伎や講談で大袈裟に拡げただけの事であり、大目付調書によれば原因は不明のままであり、イジメの事実も確認できていない。
ついでながら客観的事実を調べると、元禄13年、浅野長矩は勅使饗応役に任じられたわけだが、実はこの時は二度目の饗応役であり、過去に同じ経験がある以上、この時に殊更吉良義央に教えてもらう必要は無かったはずだとか。
製塩方法にしても、当時の吉良家の領地は決して財政逼迫していたわけでも無く、何も製塩に手を出す必要性も無かったわけで、浅野家側からしても自国の“特産品”の作り方を聞かれたからと言っておいそれと教えないのは当然であるとか。
勅使饗応の作法を教える見返りに製塩方法を…という“いかにも”な講談ネタも有るが、各地の“特産品”の“製法”だけは別物だったから現実的な話では無いとされている。
さて、この不可解裁定の裏には何があったのか?
また次回に考えてみたい。
歴史は常に動いている。