12月14日…と言えば、元禄赤穂事件。
もっとも、旧暦の元禄15年12月14日の事なので、現在使われている暦に直すと、
1703年1月30日になるらしいが。

さてこの事件、天子様から江戸に遣わされる“勅使”が間もなく通る事になっていた“江戸城松の大廊下”にて、赤穂潘主『浅野内匠頭長矩』が『吉良上野介義央』に斬り付け、浅野側だけが切腹を命じられ、その後取り潰しとなった旧赤穂潘士達が江戸の吉良邸に乱入の上、亡き浅野長矩の“仇討ち”と称して吉良義央を斬殺したという物。

因みに、時代劇等で描かれている“吉良の浅野イジメ”が原因とされるストーリーが広く世に知られているが、あれは事件の50年程後に竹田出雲によって作られた歌舞伎の原作『仮名手本忠臣蔵』という、元禄赤穂事件をモデルに作られたフィクションなので、注意して頂きたい。

実際には事件直後、全国の大名の監視を主たる任務としている“大目付”によって、加害者たる浅野長矩の取り調べが行われている。

大目付の調書によれば、浅野長矩は大抵の世間話等には素直に答えていたらしいが、肝心の『何故、吉良義央に斬り付けたのか?』という質問に対してだけは、一切答えなかったという。

今風に言えば“黙秘”を通したらしい。

同時に、吉良義央側も、何故斬られたのか皆目見当が付かないと言っていたそうだ。

結果、原因不明のまま浅野長矩だけが即日切腹命令が出され、吉良義央はお咎め無しという、不可解な裁定が下される事となる。

さて、ここでアナタにも考えて頂きたい。

同じ武士同士、徳川直臣同士の傷害事件、

何故、加害者と被害者と立場が分かれたとは言え、両者の扱いにこれ程の差が出たのだろうか?



この謎を探るのは、次の記事に持ち越したいと思う…


歴史は常に動いている。