中国南北朝時代の、“南朝宋”の記録『宋書』には、“倭の五王”が出て来る。
“倭の五王”とは、あの邪馬台国の卑弥呼以降、中国側の史書に実に100年以上の時を経て久々に登場した倭人の記録である。
その中の五人目、記紀と宋書の対比から、おそらくは雄略天皇ではないかと言われている倭王“武”が南朝宋の順帝にあてた上表文の中に
『東に毛人を征する事55国…』
という一節がある。
この“毛人”、おそらくは後に“蝦夷”と呼ばれる人々と思われるが、何故、『征』という表現が使われるのか?
東北地方には、古くから三内丸山遺跡や亀ヶ岡遺跡の存在から解るとおり、畿内の王権とは関係なく平和に暮らしていた人々が居たはずである。
そこへ突然、畿内から徴税等の命令を持った遣いが現れた。
当然、徴税される覚えの無い東北の人々はこれを無視したのだろう。
結果、畿内王権は“まつろわぬ民”(言う事を聞かない人)として、『征伐』という表現を使って『侵略軍』を派遣。
以来、長きにわたる蝦夷征討の歴史が始まる事となる。
この様に、古代日本(5世紀)には先住民と侵略者の戦いが実際にあった事が中国側の史書にも記録されているのだ…
歴史は常に動いている。
“倭の五王”とは、あの邪馬台国の卑弥呼以降、中国側の史書に実に100年以上の時を経て久々に登場した倭人の記録である。
その中の五人目、記紀と宋書の対比から、おそらくは雄略天皇ではないかと言われている倭王“武”が南朝宋の順帝にあてた上表文の中に
『東に毛人を征する事55国…』
という一節がある。
この“毛人”、おそらくは後に“蝦夷”と呼ばれる人々と思われるが、何故、『征』という表現が使われるのか?
東北地方には、古くから三内丸山遺跡や亀ヶ岡遺跡の存在から解るとおり、畿内の王権とは関係なく平和に暮らしていた人々が居たはずである。
そこへ突然、畿内から徴税等の命令を持った遣いが現れた。
当然、徴税される覚えの無い東北の人々はこれを無視したのだろう。
結果、畿内王権は“まつろわぬ民”(言う事を聞かない人)として、『征伐』という表現を使って『侵略軍』を派遣。
以来、長きにわたる蝦夷征討の歴史が始まる事となる。
この様に、古代日本(5世紀)には先住民と侵略者の戦いが実際にあった事が中国側の史書にも記録されているのだ…
歴史は常に動いている。