さて、邪馬台国に関する“どこにあったのか?”論争について。
、“こんな話が喧嘩の火種になってしまったのを見た事があるので、怖くて言えない”旨のコメントを頂いたので、あくまでも客観的に。

この論争、もはや感情論になってしまっていて、冷静に話せる方は少なくなってしまったのでは?いや、もはや皆無?等と思えて来る。

商業主義的な事を言えば、我が地元に邪馬台国が有ったとなれば、その観光効果・経済効果は図り知れない程莫大な物となるだろう。


ここでは学界が学説としても取り上げていない、“トピックス”レベルの話を紹介しておきたい。

*大陸に近い九州を支配下に置いていた女性指導者が、三国時代の“魏”に対して、“日本列島全体の支配者”だと名乗ってしまったので、魏志倭人伝には邪馬台国は倭国内連合のトップだと記述されてしまった。

*畿内には別の王権が誕生しており、当初は魏と邪馬台国のやり取り等を全く知らず。

*暫くしてから、邪馬台国が魏に対して倭国全体のトップだと“勝手に”名乗った事を知った畿内王権が軍事力を行使して九州を制圧。邪馬台国滅亡。

*卑弥呼の死後18年経ってから、三国時代を統一した、建国から間もない“晋”に挨拶した“倭の女王”は、実は卑弥呼の血縁者ではなく、畿内王権の女性。(神功皇后か?)

*日本書紀の神功皇后紀の中に、“一書曰く”として、魏志倭人伝の卑弥呼に関わる記述を何のコメントも無く引用している所があるが、これはあたかも卑弥呼と神功皇后を同一視させようとした策略か。

*日本書紀にハッキリと卑弥呼の事を書かなかった理由は、仮にも中国側の強国から“親魏倭王”の称号を受けた邪馬台国を、現政権が滅ぼしたとはとても書けなかったから?特に中国側に配慮して。

*後に、第三回遣隋使あたりから“日本”という呼称が使われ始めるが、“隋”にしろ次の王朝“唐”にしろ、“倭国”と“日本国”が同一国なのか別の国なのか、戸惑っていたフシがある。

最後に書いた中国側の認識以外は、物証の無い想像の産物と思われるので何とも言えないが、先のブログにも書いたとおり『親魏倭王』の印綬が発見されれば、邪馬台国の存在や場所は特定されるだろう。


歴史は常に動いている。