既成概念が真実を隠してしまう事は多々ある。
その具体例をひとつ。
昭和21年(1946)、群馬県岩宿の切り通し(両側が切り立った崖の様になった道)で、仕事帰りにここを通った相沢忠洋青年により、関東ローム層と呼ばれる赤土層から黒曜石の破片が発見された。
実はこの発見こそが、日本列島における人類史を書き換えるきっかけとなったのである。
と言うのも、関東ロームの赤土層は激しい火山活動のあかしで、この時期の日本列島には人類は存在していなかったと考えられていたからである。
相沢青年はこの破片を、後に、考古学界の長老的存在となる明大の芹沢長介氏に見せて相談し、やがて本格的な発掘調査が行われ、打製石斧やナイフ状の剥片石器が発見された。
これが現在の岩宿遺跡である。
この話で重要なのは、関東ローム層から見つかった黒曜石の剥片を人為的な加工が施された石器ではと疑い、そして当時の有力学者に相談した相沢青年と、それを受けて調査を開始した芹沢博士(当時はまだ研究員か)。
二人とも、関東ローム層及びそれより古い地層には人類の痕跡などあるはずが無いという既成概念に縛られずに動いたわけで、これは正に英断だったと言えよう。
何せそれまでは、どんな発掘調査であれ、関東ローム層に到達した時点でそれより深く掘る事は無かったと言うのだから。
この発見により、昭和21年まで日本列島には存在しないとされていた旧石器時代(先土器時代)及び旧石器人類の存在が確認されたのである。
歴史は常に動いている。
その具体例をひとつ。
昭和21年(1946)、群馬県岩宿の切り通し(両側が切り立った崖の様になった道)で、仕事帰りにここを通った相沢忠洋青年により、関東ローム層と呼ばれる赤土層から黒曜石の破片が発見された。
実はこの発見こそが、日本列島における人類史を書き換えるきっかけとなったのである。
と言うのも、関東ロームの赤土層は激しい火山活動のあかしで、この時期の日本列島には人類は存在していなかったと考えられていたからである。
相沢青年はこの破片を、後に、考古学界の長老的存在となる明大の芹沢長介氏に見せて相談し、やがて本格的な発掘調査が行われ、打製石斧やナイフ状の剥片石器が発見された。
これが現在の岩宿遺跡である。
この話で重要なのは、関東ローム層から見つかった黒曜石の剥片を人為的な加工が施された石器ではと疑い、そして当時の有力学者に相談した相沢青年と、それを受けて調査を開始した芹沢博士(当時はまだ研究員か)。
二人とも、関東ローム層及びそれより古い地層には人類の痕跡などあるはずが無いという既成概念に縛られずに動いたわけで、これは正に英断だったと言えよう。
何せそれまでは、どんな発掘調査であれ、関東ローム層に到達した時点でそれより深く掘る事は無かったと言うのだから。
この発見により、昭和21年まで日本列島には存在しないとされていた旧石器時代(先土器時代)及び旧石器人類の存在が確認されたのである。
歴史は常に動いている。