日本史的覚書 -6ページ目

日本史的覚書

史跡をめぐるのが趣味な奴が更新します 

大学のゼミの皆でゼミ旅行に行ってきます


いざ、京都(あわよくば奈良)


姫神の曲を聴きながら

古代日本に思いを馳せる…←



姫神の曲、結構地元のCMに使われていることを知った今日この頃

…だから馴染があるのかと…



「神々の詩」を聴いたときの衝撃を今でも覚えている


アバナガマポ の歌詞の印象が強く暫く頭から離れなかった


それは、母も同じだった

神々の詩という曲名が出なかったとき


「あの、ほら、『ああーいいやぁーなんとかーー』っていうやつ」

と説明されたことがあった



最初は分からなかったが、

「ああ、アレね」 という具合に理解




京都、奈良…楽しみだなあ…!!!




日本史的覚書

日本史的覚書

東大寺大仏殿にて




日本史的覚書

薬師寺東塔


福島県大玉村に住むご夫妻から葉書を頂きました



携帯電話が普及して手軽にコミュニケーションがとれるこのご時世に

敢えて文通をしています


手紙、良いですね…

たまに来るからこそありがたみというか、携帯メールにはできないやりとりだと思います


上手く言語化できませんが←



久しぶりの手紙でした

地震直後~数日間連絡がつかず不安になりましたが

最終的に通じたので良かったです


しかし、原発事故の実態が少しずつ明らかになり出した時に

テレビに大玉村の文字が…


放射線の影響が出始めているとの報道に驚きを隠せませんでした

原発は安全なものではないのだと漸く実感した時でした



今回の手紙は地震発生後の様子について

大玉村の現状について書かれていました



『道や建物の復旧は始まっていますが、

特に瓦工事は人手も材料も不足し、終わるのは3年後とも言われています。

それ以前に復旧に着手することすら許されない

避難区域の方々の前向きな明日を願うばかりです。』



ご夫妻の気遣いには頭が下がります


本当に思いやりのあるお2人です




私も、ご夫妻はじめ東日本大震災で被災された皆様が

健やかに過ごされるように願っております












この間、皮膚科に行ってきました



ええ、爪水虫の経過を見ていただくために



「だいぶ、生えてきたんじゃないですか

…あ、前にも言ったかもしれませんけど



5㎜くらい伸ばしておいてくださいね


その後は夏休みの話になって…


「もう学校休みですか?」

「いえ…まだ補講が」

「ああ、震災の影響ですね」

「9月に帰ろうかと」

「お盆は帰らないんですか」

「あ―…お盆はゼミ旅行です」

「私も学生の頃実家に帰りませんでした…バイトに明け暮れていて」


先生は土木工事系のバイトをしていたようで

「耳の聞こえが悪くなったかな、と思ったら鉄粉が耳穴に詰まっちゃっててね」


と笑っていた



診察そっちのけwwwww



まあ、順調に回復しています

爪水虫死刑執行できるかな…



主に化政以降についてまとめてみた


【教育の普及】


1630年 忍岡学塾

1690年 湯島聖堂学問所

※湯島聖堂…江戸湯島の孔子廟のこと 徳川綱吉の時代に上野忍岡の林家の家塾弘文館を

湯島昌平坂に移し、大成殿を設け孔子を祀る 林家の家塾も聖堂学問所として整備された


1797年 昌平坂学問所…幕府直轄の教育機関 寛政異学の禁を機に施設・制度が整備され

                1797年に林家の家塾を切り離し、幕府直轄の学問所となる

1868年 昌平学校

1869年 大学校


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1858年 種痘館

1860年 種痘所

1861年 西洋医学所

1863年 医学所


1868年 医学校

1869年 大学校


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1811年 蛮書和解御用…高橋景保の建議により幕府天文台に設置された蘭書翻訳局

                多くの洋学者が訳官となる


1855年 洋学所

1856年 蛮所調所


1862年 洋書調所

1863年 開成所

1868年 開成学校

1869年 大学校

 

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これらが、現在の東京大学の前身となる




江戸時代

諸藩には、藩学(藩校)や郷学というものが存在した 


藩学(藩校)…藩士教育(学問と武芸稽古所)

        儒学中心、兵学も教授


郷学…藩士・庶民教育



山形の藩学といえば

致道館(鶴岡)、興譲館(米沢)



また、民間では私塾・寺子屋・心学舎があった


私塾…漢学塾・国学塾・洋学

寺子屋…民間の経営、日常生活のための読み・書き・そろばんが主体

心学舎…心学の塾

※心学…18世紀初め石田梅岩が始めた庶民的学問 商人の存在意義、町人道徳を説く




参考文献

「日本史B用語集」山川出版社

「詳説日本史図録」山川出版社

戸沢氏の出自


新庄市史 第一巻より



『戸沢家譜』によると、戸沢氏は平氏の出で、始祖平衡盛は大和国(奈良県)尾輪村に生まれ

はじめ尾輪氏と称したが、鎌倉時代の建久5年(1194)頼朝から岩手郡滴石の戸沢を与えられ

滴石に入部して戸沢氏を称した

二代兼盛のとき、建保6年(1218)滴石から仙北郡門屋に移り、安貞2年(1228)門屋城を築いたという

戸沢氏は以後12代まで門屋城を本拠にした

やがて室町時代の応永30年(1423)7月13代家盛が仙北郡角館に移ったとしている


これに対して

嶺金太郎『戸沢氏発祥地考』は戸沢氏は仙北郡檜木内の戸沢村からおこった小土豪であり

戸沢・小山田・角館と、檜木内川に沿って南下し、角館城を本拠にしてしだいに勢力を伸ばし、

戦国大名に発展していったとされる


『秋田県史』によれば、戸沢氏は桓武平氏の末流でその始祖衡盛が鎌倉時代に常陸国から

陸奥郡滴石の戸沢(雫石町戸沢)に移住して戸沢氏を称したとしている


『岩手県史』によれば、衡盛は滴石氏の始祖であり、

鎌倉時代初期、岩手郡滴石に移住したと信じるほかないとしている

滴石氏は岩手郡と出羽仙北郡の両方に所領をもったとしている



『新庄市史』では、これらの説を踏まえて以下のように述べている


新庄藩主戸沢氏の始祖は

滴石に移住した衡盛であるとみてよい


応永30年(1423)滴石戸沢氏が角館に移り仙北郡戸沢氏と合流したと考えられる

そして、最後まで滴石城に残った戸沢氏の一族も

天文9年(1540)三戸南部氏に攻略され角館に移った

その結果滴石・仙北両戸沢氏は完全に一体となり、角館を本拠にして

大きな勢力に発展していったと推測される 







秋田、山形だけでなく

岩手にも関連があるということでより詳しく調べる必要がある