メジャーな人物は取り上げないとは言ったがなんとなく書きたくなったので
巷で人気の伊達政宗について書こうと思う
ただ、全部は書けないので
史学実習で扱った摺上原の戦いまでに留める
伊達政宗(1567-1636)
本姓は藤原氏 第16代当主伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男
幼名は梵天丸 名は藤次郎
幼少時に患った疱瘡により右目を失明し隻眼となったことから、
後世には「独眼竜」と称されている
天正5年、元服
天正7年、三春城主田村清顕の娘愛姫を正室とする
天正9年、隣接する戦国大名・相馬氏への侵攻に15歳で初陣し、勝利を収める
天正12年、18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する
小手森城主・大内定綱は二本松城主二本松義継と手を組み、田村氏の支配から脱却し、
政宗に対抗しようとした
天正13年、政宗は小手森城へ兵を進める
討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した小手森城の撫で切りを行い、非道な一面を見せた。
豪族が殆ど親戚・縁戚同士という奥州では皆殺し戦術は前代未聞の大事件であり、
近隣の戦国大名を恐怖に陥れた。これは、近隣諸国への見せしめである。
19歳の政宗は、この戦功を伯父である最上義光に宛てた
その文書は最上義光歴史館で見ることができる
しかし、一方で政宗は後年、戦略的見地から定綱を家臣の列に加えている
大内定綱の没落を間近で見た二本松義継は和議を申し出、
輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを畠山領として安堵することになった
ところが輝宗が、所領安堵の件などの礼に来ていた義継を城門まで見送りに行った所を拉致される
政宗は事件の時、狩りに出かけていたが急遽戻って一行を追跡し、
輝宗もろとも鉄砲を放って一人も残さず殺害したという
この事件は、輝宗が自分とともに義継を撃てと命じたとの説や
追跡してきた政宗の軍勢がすでに鉄砲で武装していたことから、
政宗の父殺しの陰謀だったとする説など発生原因も含めて諸説ある
その後、初七日法要を済ますと輝宗の弔い合戦のため早くも二本松城を包囲し、
二本松氏救出のため集結した、
佐竹・蘆名氏など3万の反伊達連合軍と安達郡人取橋で死闘を演じた
数の上で5分の1以下の戦力であった伊達軍は重臣・鬼庭義直を殿軍として辛くも持ち堪え
反伊達連合軍の撤退により政宗は窮地を脱した(人取橋の戦い)
政宗は更なる侵攻を行い、天正16年に郡山合戦にて相手国の領土を奪う
正妻・愛姫の実家・田村氏の協力を得て、現在の福島中通り中部にあたる地域まで支配下に置く
天正17年には東北地方の覇権を賭けて会津の蘆名義広・佐竹義宣の連合軍と戦う
この戦いを摺上原の戦いという
実は、この戦いの前に政宗は相馬氏を攻め二つ城を落としている
このことは、なかなか知られていないらしい
蘆名氏はすでに関白、秀吉傘下の大名となっており、
政宗が蘆名氏と戦うことは秀吉への挑戦を意味していた
蘆名義広は1万5000の兵を率い、政宗も2万1000を率いて磐梯山の中腹に陣を敷いた
この戦いで伊達軍は騎馬武者300騎、兵2000余りを討ち取ったという
黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配した
さらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼした
この戦いと前後して、白河義親、石川昭光、岩城常隆が次々と政宗に服属した
このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、
及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた
これに加え上述の白河氏といった南陸奥の諸豪族や、
また今の宮城県や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった
このように政宗直属軍は非常に動きが俊敏だということが分かる
やはり、政宗は武勇あふれるゆえに
圧倒的な支持を得るのだろうか(それだけではないのだが)
参考文献 ウィキぺディア
↑7月に歴検受けに行ったときに撮った写真
