日本史的覚書 -24ページ目

日本史的覚書

史跡をめぐるのが趣味な奴が更新します 

【回想録】


1時限目 日本近代史


先生が始業開始のチャイムが鳴っても来なかった

暫くして…

先生が教室に入ってきた 


マイクを持った後、思いがけない言葉が…


「えー…とですね、先にですね…今、体調が滅茶苦茶なんですよww


な、なんだとー

先生…大丈夫か…?


確かに顔が青い…具合が悪そう



「ちょっとですね、肩こりで…首と、頭が…」

「でも、皆さん1時限目朝早いのに来ていただいたので…」


そういって授業を開始したのだが

先生は時折言葉を詰まらせたり、無言になったり…

そして遂に席を外してしまったのである


「ちょっとまってくださいwwええと、体調が悪いんで…できそうになくて

やめても大丈夫ですかねwww



1時限目は、なんと20分で終了

先生、お大事にしてください…




2時限目の先生も、「鼻声で」と言いながら授業をしていた

先生方…お疲れなのでしょうか…?



3時限目は日本女性史


日本近代女性史に欠かせない人物

今日は雑誌「青鞜」関連の人物が取り上げられた


それが平塚らいてう、与謝野晶子らである


「元始、女性は太陽であった…」という文言

多くの方はご存じなのではないだろうか


これは「青鞜」発刊の辞である


よく、らいてうは、女性解放を推進したとか言われているが

女性の政治的・社会的権利を主張したわけではなく

どちらかといえば女性の自我形成に尽力した人物なのである


平塚らいてうは、スキャンダルの多い女性だったようだ

最も当時のマスメディアが過剰に報道したという話だが…


・男性と自殺未遂

・5歳年下の画家・奥村博史と婚姻手続きをせず、事実婚


特に後者のことについて触れるが

らいてうは、家父長制を嫌い、夫婦別姓をとったため

世間から非難を浴びた


当時、「事実婚」という言葉がなかったため、

このことはマスコミにとって恰好の材料となったのである



夫婦別姓について

女性史の先生は賛成 そして同姓には否定的


「『夫婦同姓は伝統』 ハァ?」

と仰った先生に同意する



私が今日最も関心を寄せたのが

「貞操論争」なるものである


社員の生田花世が、

かつて生活難から売春をしたことを雑誌「反響」で告白した


食べるということが第一にあって、

自分の貞操は二の次であったという


これを非難したのが同じく社員の安田皐月


「青鞜」で「飢えて死んでも私は私を生かさないでは置かない」

と、貞操は守るべきであると語った


これに対し、伊藤野枝は、

「私はむしろ未練なく自分からヴァージニティを遂い出してしまう」と述べた


伊藤の言っていることは

一見、尻軽女の発言に聞こえるかもしれない


しかし、この発言の裏には

生活を営むために身を犠牲にしていた女性たちの姿があったのだ



この「貞操論争」は、

未亡人の再婚さえ非難がましく言われた性意識を揺るがす

問題提起となったのである



為になったなあ…











【回想録】


1時限目 歴史考古学

今日は、武士の都・鎌倉


実は、頼朝が鎌倉幕府を開く以前にも鎌倉は要地として名高かった

奈良時代天平期の古文書、木簡が出てきて判明した


御成小学校の裏に郡家跡が見つかったのである



そして…平安末期

桓武天皇のひ孫である高望王が平氏を名乗り、平高望と名を改めた


高望の子は、国香、良将、良文


まず、この3人の名前を読者の方には覚えていただきたい

良将が亡くなったとき、内乱が起こった


良将の兄・国香 そして、良将の子・将門  伯父甥の関係である


両者は良将の領地をめぐって骨肉の争いを繰り広げた

これは俗に「平将門の乱」といわれ

国香の子・貞盛と藤原秀郷によって鎮圧された


秀郷は、武功を立て鎮守府将軍に任ぜられる

この秀郷こそが、奥州藤原三代の先祖である


一方、貞盛側は…


貞盛の子・惟盛は伊勢受領に これが伊勢平氏の始まりである



待てよ、関東は?


と思った読者もいるだろう

お忘れか?まだもう一人生き残った者がいるということを


そう良文である


良文の子・忠常は、乱を起こしたことで有名だが

乱を鎮圧したのは、清和源氏、源頼信である

忠常は、頼信にあっさり降伏したという


話は少々変わるが

忠常と仲が悪かった平直方という人がいる

彼は、頼信の子・頼義に惚れ込んで自分の娘を嫁がせ

自分の領地も授けた


その領地というのが他ならぬ鎌倉



これが、源氏と鎌倉との出会いである



ここから余談


鎌倉の名物と言えば…?

鳩サブレー


鳩サブレーは明治時代期の発売当初には「鳩三郎」とも呼ばれていた

これは、この菓子を開発した初代店主が

最初に「サブレー」と言う耳慣れない単語を聞いた時に

「サブレー」=「三郎」と連想したためである

なお、「鳩三郎」はあくまでも豊島屋の初代が付けた愛称である


鳩サブレーは店に来た外国人からもらったビスケットが原点


鳩の形となったのは初代が鶴岡八幡宮を崇敬しており

本宮の掲額の八が鳩の向き合わせであり

宮鳩もいるところからモチーフをとったと言われている


※参考資料…ウィキペディア



そして、

源頼朝の肖像画にまつわる話

頼朝の肖像画とセットで扱われるのが

平重盛と藤原光能の肖像画



何故この3人がセットなのか



実は、この3人、後白河法皇のラブラブだったのである

考えたくもないがそんな説があるらしい


これら3人の肖像画を描かせたのは他でもない後白河法皇


現代の我々が自分の好きな芸能人のポスターを眺めて

ニヤニヤしているのと同様に

後白河法皇も夜な夜な彼らの肖像画をみて

ニヤニヤしていたのであろうか


うわーぞわっとするwwwww



鵜呑みにしてはいけませんよ↑



大分、話が長くなってしまったが今日は書きたいことが

山ほどあるので、しばしお付き合いを


2時限目 講読


…の前の休み時間

1時限目が終わった後に、友達と食堂に行って

ココア等を買いに行き(私は友達のを飲ませてもらったりしていたが)

エレベーターに乗り込んで3階に行こうとした


途中友達の眼鏡がココアから発せられる湯気で

曇った時に私は思わず


「の●太くーんww」と叫んでしまった

しかもドラ●もんの物真似しながら


それを言ったのと同時に2階に止まり、ドアが開いた


ドアの向こうには、人!!

…やっちまったーと思った…orz


私は極力冷静を装い、乗り込んだ人に「4階ですか」と聞いた

周りの友達は、必死に笑いをこらえていたようである


教室にたどり着いた時には

全員大爆笑 よほどツボに、はまったのであろう



今年1位2位を争うくらいの恥であった



3時限目古文書学

4時限目史学実習


今日は、発掘調査で馳上遺跡へ


発掘って土掘ればいいんだろう?と思った読者

侮ることなかれ 発掘は足腰にくるのだ


短時間でもきつかったのだから



発掘開始5分もしないうちに

自分の後ろで掘っていたクラスメイトが土器を発見した


それから2、3人が土器を発掘



私も、赤土を見つけたので

これは間違いなく土器だと思った



しかし…



「時間でーす」



えええええええええー!!!!!!




ああ無情…


あと30分時間があれば土器出土も夢ではなかったのに…

非常に悔しい



リベンジしたかった…


















「みんなで芋煮やりませんか」


教養ゼミでお世話になった(現在でもお世話になっている)先生からメールが届き、


今日、芋煮会が行われた IN研究室



前回の会合で芋煮失敗したので

今回は、山形県出身者監修のもとに芋煮を作った


吉四六は豆腐切っただけ


まずは、醤油ベースの芋煮 

置賜 米沢近辺で食べられているものに近づけた


特徴は牛肉を使っていること



芋煮を作っていた友達が芋煮セットの中身を見て



「醤油が丸十じゃない!!!」


と、叫んだ



芋煮といえば、丸十の醤油と決まっているようで怒りをあらわにしていた


なんとか砂糖、塩で味を調え

この間よりは確実に美味しくなった



前回、何故不味かったのかといえば


酒を入れ過ぎたからである

料理酒ではなく、日本酒ww


で、できたのがこちら↓


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次に味噌ベースの芋煮

こちらには豚肉を入れる


庄内地方近辺で食べられているものに近づけた


日本史的覚書

どちらも美味しく頂きました



芋煮の〆は、カレーうどん

これもまた、絶品



酒も用意しているとのことで


酒肴としてイナゴの佃煮が登場!

大半の子がイナゴ初体験



「ええー??」


と怖がっていた子も、足の部分の食感が気にいったみたいで



そのおかげで(?)

最終的に大きめのイナゴや、その胴体が残されたが…



完食



寒河江出身の子は、イナゴを佃煮が給食に出たと言っていた

凄いな寒河江…





気になる酒だが


山形の日本酒、新潟の焼酎を頂いた

どちらも辛口で、自分にはまだ早いと思った



しかーし


先生が

「吉四六(仮名)さん、酔ってなさそうだな」と言って

酒を注いできた



いや、酔ってるってww


ちびちびと呑みましたよ 



こちらも空にしました…




まさか一週間に肉をこんなに食べるとは思わなかった…


明日は野菜だけ食べていよう←



















前田慶次



前田慶次、といえば「戦国無双」や「戦国BASARA」といったゲームで

お馴染となったキャラクターであるが


史実の彼の生い立ちは、はっきりしていない


「慶次」というのは通称の1つ

他には宗兵衛、慶次郎、啓次郎、慶二郎がある


諱は利太(としたか)、利貞など複数存在する




生没年には諸説あり、曖昧さを避けるために

戦国時代末~江戸初期の人物とだけしておこう



「真説前田利家とまつの時代」(勝部真長監修、主婦と生活社)によれば、


慶次(ここでは利太)

尾張嶺城主滝川益氏の子で、利家の兄・利久の養子

すなわち、利家と慶次は叔父甥の関係


書・和歌・連歌・能などにすぐれた教養人でしかも気骨あふれる傾き者だったため

はじめ父・利久とともに利家に仕えたが、その後、上杉景勝に仕えた

関ヶ原後は再び浪人となったが奇行が多く、前田家ではかなり困惑したという

大和刈布で没した


と記載されている


これは、加賀藩史料に基づいた見解



次に挙げるのは、

私の現在地、米沢市に伝わる説




関ヶ原西軍敗退により上杉氏が30万石に減封され米沢に移されると、

これに従って米沢藩に仕え、米沢近郊の堂森に隠棲した

米沢側の資料では、堂森で没したとされ、

慶次の亡骸は北寺町の一花院に葬られたとするが、

一花院は現在廃寺となっており、当時の痕跡は残っていない


また堂森の善光寺に供養塔が残るが、

こちらの供養等は昭和55年に建てられたものであり、

近年では善光寺で供養祭が営まれている



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一花院跡

左に見えるのは那須与一の供養塔



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堂森善光寺

…にある慶次の力石


持ちあげたという話も伝わっているが…


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堂森善光寺にある慶次の供養塔


近年の歴史ブームで

大分、派手になっている供養塔内部


慶次のお酒もあったし…