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日本史的覚書

史跡をめぐるのが趣味な奴が更新します 

高3の今頃 続編


紆余曲折を経て、志願票を提出

鬼のような2次対策が待っていた


国公立前期を捨てた 

2月、3月の中旬にまとめて受けることにした


一つは、前項で決めたところと

某私立 模試を受けているときは眼中になかったが、

あまりにも酷い点数を取ってしまったがためにそうせざるを得なくなった


小論文、国語、日本史があるため、教科のある時間に出た



小論文は、地獄のようだった

まず、先生のご機嫌伺をしなければならなかった


分野によって担当が異なる


私の担当者は、1年生の頃の副担任だった


「これ幸い」と思って舐めていた…


はじめに見てもらったとき

「こんなんじゃだめだから!!」と、もの凄い剣幕で言われた


怖い…


良いものを書こうとして

提出が遅れてしまったこともあった


国語の対策の時間、問題が解き終わったので、小論文を書いていた


暫くして、

小論担当の先生と職員室前でばったり会ってしまった



「吉四六、国語対策担当の先生から聞いたんだけどさ、授業中に

小論文書いてたんだって?」


(げ…まずい)


「しかも、解説の時にも書いてたって?」


(え?解説の時は聞いてたんですけど…)



確かに小論文を提出せず、授業中に書いていたことは自分が悪い

だが、リークすることか…?


「国語担当の先生に謝りなさい」


そう言われ、国語担当の先生に謝りに行った


先生は、「授業聞くか否かは、あなたたち次第だから、寝ていようが、何していようが、

それは、もう自由だから」と言った



…放置するなら

「国語の時間に小論書いてた」とか、漏らすなよ

思いっきり生徒の動向気にしてんじゃねえか…


国語担当の先生に「何やってるの?」とその場で叱ってもらった方がまだ良かった


国語担当の先生は、小論担当の先生を介して私を叱った

なんとも可笑しげな構図である



それからというもの、

書いては直され、書いては直され、という日が続いた


一週間で一題ということもあった


「極端だ」と言われて納得がいかなかったこともあって

「ここは違うんじゃないですか」と、反論するも

言い負かされる


相手は国語の先生だから、

語彙力があり、文章を組み立てることに長けている


敵うはずがない



でも、悔しかった


自分の書いたものにケチをつけられ、

直されたところを基に書いて良いと評価された文章は、

明らかに先生の自己満足でしかない文章なのだ


自分のものではない



しかし、自分の文章を書いたところで、

受かるはずはないのである


悔しいが指導をあおがないことには何もできない




何度も何度も書いた



書きまくった…





高3の今頃③に続く(かも)





















一年前、センター試験を受けた


センター試験を受けた次の日に、自己採点を3回行ったが

目立った変動がなく、惨めな気持ちになった



担任に採点したものを提出するときも

投げやりだった


変動したところで入れる見込みのある大学なんてないと考えたからである


判定が渡る

案の定、どれもE判定であった


呆れてものも言えない



英語が、かつてない点数であった

全国平均の半分にも満たなかった 


文型のくせに英語が出来なかった


お世話になっている英語の先生に「恩に報いることが出来なくて申し訳ありません」

という旨のことを伝えに職員室に行った


「吉四六(仮名)、担任から聞いたどーいぐねがったって?」


なんだと…

担任は、自分の成績が悪かったことを、既に英語の先生に漏らしていたのである


「吉四六、こんた点数だったんですー」と言ってたとか  腹が立った…


それを聞いて私は涙が溢れた

悔しかった上、悲しかった


「すみません…点数取れなくてすみません…」と詫びた


すると、先生が

「私が悪かった…点数取らせてあげられねくてごめんな」と言った


意外な言葉だった


先生、なんでご自分を責められるのですか!

先生は、親身になって時にはマンツーマンで英語を教えてくれた

それなのに私は、その教えを無にしてしまった…


自分は、なんて馬鹿なんだ


落ち度は、此方にあるのに…


人目も憚らず、いっぱい泣いた…

先生も一緒になって泣いてくれた…


「泣いてばかりじゃ駄目だど、落ち着いて考えれ、自分の今の偏差値で入れる大学、

もう一度探してみれ まだ調べでないところあるべ?」


確かに、自分は国公立四年制に拘って自分の興味のある大学以外は

調べていなかったのである


「今日、調べれ 担任と面談あるべ?それまでに決めるがら 明日調べたもの持っておいで」


私は無我夢中になって

ネットで自分の今の偏差値で入れるような大学を徹底的に調べた


何個か紙に書き、

次の日に先生に見せたところ


「ここにしなさい! ここ!」と言って先生が指差した




その大学が後に通うことになる大学になろうとは微塵も思っていなかった



担任との面談

憂鬱だった…半ば呆れ顔の担任は、「入るところない」と言わんばかりに

「…難しいっすな」と言い出した


私は、すかさず、英語の先生にすすめられた大学名を提示した

「ほー…一般入試だとB判定ね…ま、いいんでないすか」


担任は、自分に何も期待を寄せなかった

いや、期待されてもそれはそれで迷惑だが


最初から放置してくれたら良かったのに


担任はなんだかんだ言って、実績を誇りたいのであろう

「自分のクラスからは国公立何人出しましたー」とか 結局は自分だ


でも、他のクラスでなくて良かった

我が担任は、見込みのない者に関しては放任主義であったから気は楽だった


他のクラスの担任は、

国公立に固執し、

執拗に「琉球大行がねか?」と迫ったり、

A判定の所を受けようとした生徒にC判定の大学を受けるよう薦めたりしたそうで


友達から相談されたことがあった

ほぼE判定の自分からすれば彼らは幸せなお悩みをお持ちだった

A行くかC行くかで迷っているとか…


最終的に自分が決めることなんだから

自分の行きたい方にしなよ、とアドバイスにならないアドバイスをする


でも、実際そうだ


担任の口車に乗ってはいけない

自分で本当に行きたいかどうかが鍵である



迷いというのは幻覚だ



自分の進むべき道というのは自分がよく分かっているはずである


自分が何を学びたいか、これが重要だと思う



②に続く(かも)
















人生初のバイト

だが、バイトらしくないバイト


学校主催で、記念史料室のバイト


今日は、準備で、源氏物語絵巻複製6曲1双の屏風を搬入

パネル作りなどなど…


学生8人での作業


寒い史料室に閉じこもっていたので、食堂でお菓子を食べ、

7時には解散(もうすでに帰っている人もいたが)


「いつか呑みたいね」とかそんな話も出た





呑みたい…試験は目の前だけど


直江兼続、上杉家関連史跡

その他諸々米沢の名所についてできる限り紹介します!


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【東源寺】

1645年直江兼続の霊を祀るためこの地に伽藍を建立し、

兼続の妻・お船並びに嫡子の霊牌が奉祀された

また、東源寺に安置している五百羅漢は、天明3年に始まる

東北地方一帯の凶作、天明の飢饉のおり、五穀豊穣祈願のため

27代宗岳和尚が発願し五百体の羅漢像を

米沢の仏師後藤亀次に謹刻させたものである


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【上杉伯爵邸】

上杉伯爵邸は、明治29年、米沢城二の丸跡に

上杉家14代茂憲伯爵邸として建てられた

当時は敷地約5,000坪、建坪530坪という壮大な大邸宅だったが

大正8年米沢大火により焼失

大正14年に、胴板葦き、総ヒノキの入母屋づくりの建物と、

東京浜離宮に依って造園された庭園が完成した


躑躅が満開の時期だった


献膳料理が食べられる…私の様な身分では食べられないけどorz


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【白子神社】

火産霊大神・植山姫大神・大宣都姫大神の三神を祀る

米沢の鎮守として歴代領主の崇敬も篤く、

社殿の造営・社領の寄進など保護を受けた


白子とは、この地に蚕が生じ、

桑林は繭で雪が降ったように白くなったことに由来するそうである



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【法泉寺】

元和4年(1618)上杉景勝を開基として

重臣・直江兼続が創建した臨済宗の寺院で当初は禅林寺と称した

那須黒羽の名刹・雲厳寺の九山和尚を迎え、兼続や足利学校で

学んだ九山が収集した書籍を基に「禅林文庫」を設置し、

藩の学問所とした

その蔵書は上杉鷹山が再興した藩校興譲館へ伝わり

現在は米沢図書館へ受け継がれ米沢藩の文教発祥の地とも称される


1690年4代藩主綱憲の命で法泉寺と改号

定勝の娘・亀姫(法泉院)に由来し、上杉家の臨済宗菩提寺となる

法泉院や梅嶺院(定勝娘・吉良上野介妻)祥寿院(六代藩主宗憲の母)の墓所がある


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文殊堂と法泉寺庭園(米沢三名園の一つ)


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我妻栄記念館

行った日に限って休館日でした!!!


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西蓮寺

吉雄忠次郎・穴沢沓斉の墓がある


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なんと、かの有名な

吉田松陰も米沢を訪れていたようですね



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高国寺

近藤家の墓に新撰組局長近藤勇の首が

埋葬されていると話題になった寺


近藤勇のいとこに近藤金太郎という人物がおり、

たまたま彼が上京した折に板橋で処刑された

勇の首をひそかに持ち去りそれを焼き、

米沢の菩提寺である高国寺に埋葬したとか


信憑性に欠けるような気もするが

興味のある方は是非!



参考資料

米沢市 米沢観光協会による看板から



米沢に帰る前に、新庄の最上公園に寄った


最上公園は、新庄城祉

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お堀の水は凍っていた!!




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【戸沢神社】


戸沢神社は明治二十六年創建、翌二十七年に完成
祭神は、戸沢家始祖衡盛と藩祖政盛、十一代正実

 

藩祖政盛は、秋田県角館の城主盛安の子で、長じて徳川家康に従い、

数々の功を認められて茨城県松岡四万石に封じられ、

鳥居忠政の妹を嫁にとり、幕府の信頼を一層深めた


…「戸沢」という名字が秋田県仙北市周辺に多いのも頷けるような気がする


戊辰戦争に官軍の旗印として与えられた菊花御紋の旗が宝物として保存されているが、

この旗は靖国神社と戸沢神社にしかないと言われているそうだ




参考:新庄市HP





当時の石垣……趣深い



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帰省中、少しだけ、嬉しかったことが…

奥羽本線(山形線)から上山城が見えた音譜