すべての衆生は

仏の性質をそなえている

仏の本質を持っている

ということを

 

如来蔵(にょらいぞう)とか

仏性(ぶっしょう)といいます。

 

それについて

お経は色々な例えを用いて

説いています。

 

その一つに

「不浄なところにある金塊」

があります。

 

不浄とはわれわれ衆生がもつ

煩悩のことで

金塊が仏の心、仏の本質を

例えたものです。

 

ここでいう不浄なところとは

肥溜めとされています。

肥料にするための糞尿を

溜めておくところです。

 

金塊は、そういった

とても汚いところに埋まっていても

その性質は変わらない

 

錆びることはなく

それを取り出して綺麗に洗えば

新品同様に光り輝く。

 

そのような金塊のように

衆生の本質も煩悩にあふれて

汚れていたとしても

 

それを取り除くことで

仏さまと全く同じものとなる

ということを表します。

 

在家の一般の信者の方々であっても

出家し修行を行う僧侶であっても

仏さまでない限りは

 

常に煩悩という不浄なものとの

戦いです。

 

いくらお勤めを繰り返して

行っていようとも

毎日祈りを捧げていようとも

煩悩は湧いて出てきます。

 

それでも

仏の性質、本質が

自分にそなわっていること

→仏性

分とは仏さまを

有した存在であること

(仏の蔵)

→如来蔵

 

というようなことを

信じることができれば

日々の地道な精進に

やる気を持たせてくれるはずです。

 

辛いことや苦しいことに

悩んでいても

自分には仏さまがいる

 

あるいはお大師さまがいる

と思ってもよいかもしれません。

 

出家者ではない在家の人が

仏の性質をもっている必要はない

といわれれば意味のない話に

なってしまいますが

 

一般社会において

仏の存在を意識することが

良い結果や何らかの利益を

与えてくれると思っています。

 

どんな人でも

仏さまのような心をもっているはずです。

 

南無大師遍照金剛