中道 ー偏らないことー | 吉祥院 ~茨城県石岡市(旧八郷町)で約900年続く真言宗豊山派のお寺ブログ(お坊さんのことば)~

吉祥院 ~茨城県石岡市(旧八郷町)で約900年続く真言宗豊山派のお寺ブログ(お坊さんのことば)~

茨城県石岡市にある真言宗豊山派の摩尼山吉祥院です。
ふるさと茨城路百八地蔵尊霊場第九十一番札所に指定されており、
開山約900年の歴史を持つ由緒ある寺です。
境内の四季折々の風情や仏教について、幅広い情報を発信するお寺ブログです。

以前の記事の中で

初期の仏教においては

修行者は修行者自身の煩悩

迷いを消すことを第一と

していたと述べました。

 

初期の仏教では、お釈迦さまという

お悟りになった方が体験した

悟りの境地を追体験しようとする

弟子たちがお釈迦さまの教えを

忠実に守り、厳しく修行を行い

ついには、現世において

悟りの境地、聖者となることを

目指すものです。

 

お釈迦さま自身は、悟りを得た後

慈悲の心による利他の精神のもと

弟子や信者に対して説法を行った

わけですが、弟子たちが主とする

目的は煩悩をコントロールして

心が乱れた状態から脱却し

心の安楽な境地、つまり涅槃に至ることを

目指していたと思われます。

 

お釈迦さまの説いた教えの中で

重要なことの一つに「中道」が

あります。

初期から部派仏教の時代

大乗仏教の興起を経て

最後に密教が現れてきたわけですが

この中道の説は普遍的といえます。

 

中道は、儒教やギリシャ哲学の

「中庸」とも似ているとされます。

あらゆる地域において

両極端を離れる、ということが

徳の高いことであり、また正義なること

でもある、というように考えられたことから

その中道的な観念が、人間の本質に

関係していると捉えることもできます。

 

中道は元来は、苦楽の極端を離れることを

意味していました。

悟りに至る以前のお釈迦さまは

王子としてこの世に生まれて

一般的に見ればとても楽な生活を

していました。

その中で、何らかの苦しみを感じ

出家し、苦行を何年も行いました。

 

しかしながら、その苦行によっても

苦しみはなくならず、心の安らかさは

得られませんでした。

それから、苦行では悟れないとし

ついには瞑想、禅定を行うことにより

悟りを得ることになります。

 

そのようにして、お釈迦さまは

極端を離れるという、中道を

見出したものと考えられます。

 

苦楽を離れることだけでなく

あらゆる両極端を離れることが

中道の本当の意味です。

例えば

断見(物事は滅してしまうという考え)と

常見(物事は常に存在するという考え)を

離れること、あるいは

有・無の二辺を離れ、正しい道に進むこと。

そのような、現実の物事に対して

正しい見方をすることが中道である

と説明されることがあります。

 

中道に従って正しい見方をする

という表現が見られます。

正しいとはどういうことなのかが

わかりにくのですが、別の言い方をすると

「ありのまま」を見るということになります。

 

人間は、社会生活をする上で

様々な言語表現を用いて

物事をいろいろに分類して

概念付けをします。

その能力を持つように進化したからこそ

今日のような経済的に、技術的に

発展した世界が生まれたと考えられます。

また、今後もさらに発展していくでしょう。

 

しかし、それによってわれわれには

固定した観念などが生じ、物事を

ありのままの姿で見ることができていないことが

多くなっています。

固定観念を捨てて、ありのままの姿を

見ようとするのが、仏教修行者の

目指す所であり、その真理の一つの表現に

「中道」ということがあるのです。

 

何かに執着し、こだわることは

自らの成長、目標の達成に

重要な役割を果たします。

しかし、その思いが強すぎるあまりに

迷い苦しむような状況になることは

誰しもあり得ることです。

 

そのような状態に陥ってしまった時には

この偏りすぎない中道の観念、精神を

思い起こして、一度立ち止まることは

今のストレス社会を生き抜いていくのに

重要な役割を果たしてくれるかもしれません。