背徳者の精神 -9ページ目

3つの提案

結局、功輔から快い返事はもらえなかった。

私は少し落胆したがそれでも功輔は私にとって

とても心強い存在であることにかわりはなかった。

しばらく色々な話をしたあと功輔は部屋を後にした。

帰り際に「3つの提案」について考える様に念を押され

私は曖昧な返事をして功輔を見送った。

(今の職場は辞めたくない…新人の頃から苦労して

やっと中堅になり色々な役割もこなせるようになってきた。)

それをこんなことで「辞める」だなんて考えられない。

私は電話番号を変えるつもりも引越すつもりも…

まして職場を辞めることなど全く考えていなかった。

今思えばあの時、功輔が言ったようにしていれば

こんなにつらい思いをすることなんてなかったのに…。

嘆願

私達はまた聡のことを話し始めた。

功輔は「最悪の場合」と付け加えて次のような提案をしてきた。

1、電話番号を変えること

2、引越すこと

3、今の職場を辞めること

すべての提案に対して私は納得がいかなかった。

そもそも自分は被害者なのに

なんで逃げなきゃいけないのかと思った。

「私は悪くないのに…」

私がそう言いかけると功輔が真剣な顔で遮った。

「でも…殺されたりしてからじゃ遅いんだよ」

(まさか、そんなことあるわけないよ…)

そう思いながら私は続けた。

「うん…でも今住んでるところも職場も気に入ってるし」

そして言葉を濁らせた。

そして次に頭に思い浮かんだのは…

自分でもあきれるくらい単純で幼稚な考えだった。

「功輔さん…本当に申し訳ないんですけど

しばらく私の恋人のふりをしてもらえませんか?」

功輔は困惑したような表情で考え込んでいた。

そして呟いた。

「僕はそういうのはあんまり好きじゃない…」

「でも…私に恋人がいたらあの人だってあきらめると思うし

私だって電話番号変えたり引越したりしなくていいでしょう?」

私は身を乗り出して功輔に嘆願した。

功輔はしばらく考えさせて欲しいと言うと静かに溜息をついた。

安堵

「また何かあったんですか?」

功輔は驚いた様子で聞いてきた。

「はい…」

私はさっきあったことをすべて功輔に話した。

「………」

しばらくの沈黙のあと功輔が唐突に言った。

「…これから亜希子さんのところに行ってもいいですか?

変な気持ちとかはないです…ただ亜希子さんが心配で…」

「はい…こちらからもお願いしようと思ってました。

部屋は201号室です。功輔さんがくるのを待ってます…」

私が即答すると功輔は電話を留守電に切り替えて

鳴ってもすぐには出ないようにと告げて電話を切った。

15分くらいして経ってからチャイムが鳴り

私は恐る恐るインターホンに出た。

「はい…」

「あ、功輔です。」

「今、ロック開けますね」

そしてふたたび部屋のチャイムが鳴る。

私は急いで鍵を開けると功輔を迎え入れた。

「お邪魔します」

功輔が礼儀正しく部屋の中に入ってくる。

「その後、彼から電話とかありましたか?」

「彼じゃないですけど…」

「あっ、ごめんなさい。そういう意味じゃなくって…」

功輔が慌てて弁明し私達は顔を見合わせ苦笑した。

慟哭

私はその場に崩れ落ちて泣いた。

「立てよ…また変な目でみられるだろ!」

聡は少し焦った様子で話しかけてきた。

それでも私は無言で泣き続けた。

「わかったよ!今日はこれで帰るから。

藤田さんの住んでるところもわかったし」

聡はぶっきらぼうにそう言い残し立ち去った。

私はしばらくその場に座っていた。

とても怖くて…立ち上がることができなかった。

部屋に戻ったのはどれくらい経ってからだろう。

私は部屋に入るとすぐに電話を繋いだ。

功輔に電話しようと思った。

…その矢先、また電話のベルが鳴った。

一瞬ビクンと体が震えて…

私は留守電に切り替わるのを耳を澄まして待った。

「もしもし…功輔です。亜希子さんいないのかな?

落ち着いたら電話…」功輔からの電話だ!

私は慌てて受話器をとると功輔に話しかけた。

私の声を聞いて功輔は「あ…やっと繋がった」と

とても安心したような声を出した。

そして私もやっと声をだして泣くことができた。

さっきのあの恐怖から…

卑劣

ここで泣いてはいけないと思った。

それでも涙がポロポロと私の頬をつたう。

聡はそんな私を愛おしそうに見つめながら

優しく私の髪の毛を撫ではじめた。

「やめてください!」

聡の手を振り払うと私は大きな声で叫んだ。

その声が聞こえたのかどうかわからないが

一階に住む中年の男性が部屋から出てきた。

そして私達の様子をドア越しに黙って見ていた。

私は(助かるかもしれない)と心の隅で思った。

しかし、聡は特に困った態度も見せず

「こんばんは」とその住人に声をかけた。

「何かあったのかい?」

中年の男性がドア越しに話しかけてくる。

「いえ…ちょっと彼女と喧嘩しちゃって…」

そしてわざと男性に聞こえるように聡は言った。

「もうわかったから泣くなよ…ごめん…ごめんってば…」

これがすべて演技だということを私は知っていた。

しかし男性は心配するどころか逆に安心した様子で

「お嬢さん…もう彼氏のこと許してあげて仲直りしなさい」

と一言だけ私に声をかけてドアを閉めてしまった。

聡は「すみませんでした。」と大きな声で言うと

私のほうを振り返り、また面白そうに笑い始めた。

「助けてもらえると思ったでしょ?でも残念だったね…」

ショック

一度開いたエレベーターの扉が閉まる。

「あなたは一体なにがしたいの!私を困らせて楽しい?」

押し殺した声で私は聡に尋ねた。

「楽しいね。」

聡はあっけらかんとした表情でこう答えると続けた。

「最初は好きだった…でも、そんな事もうどうでもよくなった」

私は彼が何をいいたのか全く理解できなかった。

「今日はこのまま帰ってください!」

私は聡を睨みつけた。

「今日は…ってことはまた今度きてもいいってこと?」

聡はまた笑いながら私の言葉に付けくわえた。

「もう、私に近づかないでください!警察呼びますよ!」

本当に警察を呼ぶつもりはなかった。

だがこれで少しはひるむだろうと私は考えた。

しかし聡に動じた様子は全く見られなかった。

「警察?呼んでみれば…藤田さんが困るだけだと思うけど…

職場にこんな警察沙汰が知れたらもう働けなくなるよ。

それにね…警察も痴話喧嘩なんか相手にしないって。」

「!!!」

あまりのショックに私は今にも泣き出しそうだった。

待ち伏せ

功輔に車で送ってもらいマンションに到着すると

私はいつものようにオートロックのドアを開け

フロアに入るとエレベーターのボタンを押した。


その時だった…。


「おかえり…遅かったね。」と後ろで声がした。

振り返るとフロアの柱の陰に聡が立っていた。

「……!!!」

「さっきの…送ってくれた人、やっぱり彼氏なの?」

驚き立ちすくむ私に聡は話しかけながら近づいてくる。

「…どうして?どうして、あなたがここにいるの?!」

フロアに声が響かないように私は低い声で話した。

聡はそんなのおかまいなしに大きな声で話し始めた。

「どこに住んでるのかなって調べたらこのマンションの

郵便受けに藤田さんの名前があったからさ…」

「どうやって入ったの?」

「そんなことも知らないの?夕方になれば新聞配達もくるし

このマンションに住んでる人だって出入りするでしょう?」

そして彼はまた私をからかうようにニヤニヤ笑っている。

エレベーターが到着したが私はその場に立ちつくしたままだ。

「どうしたの?エレベーターに乗らないの?」

今度は聡が私に問いかけてきた。

胸騒ぎ

その夜、私はまた功輔に電話をして会うことにした。

功輔が指定した待ち合わせの居酒屋は

個室になっており、周りの喧騒も手伝ってか

人に聞かれたくない話をするにはぴったりの場所だった。


席について、功輔は心配そうに…私を気遣いながら話し始めた。

「やっぱり病院に嫌がらせの電話があったんだ…大変だったね。

でも、大丈夫だよ…きっと…そんなこと誰も信用しないって。」

「そうだといいけど…」

私はかなり落ち込んでいた。

「そのあと、その…聡って人から連絡はあったの?」

「ない…っていうかあれから家の電話繋いでないし。」

私がそういうと功輔は思い出したように言った。

「そういえば僕はまだ亜希子さんの電話番号聞いてなかったよね。

でも…聞いてもその状況なら電話は繋がらないか…」

「ううん…でも、私の電話番号、功輔さんには知っていて欲しい」

私は繋がらないであろう家の電話番号を功輔に教え

その日はそのまま車で家まで送ってもらうことにした。

たとえようもない胸騒ぎがするのを抑えながら…


否定

その日は一日中仕事が手につかなかった。

帰り際、私は師長を呼び止めて

今朝の院長の話とその内容について尋ねた。

師長は私のことを信じているとまず告げてから話し始めた。

「うちの病棟に入院してたっていう匿名の患者さんからね。

藤田さんが入院していた頃から自分に付き合いを強制していて

退院してからも毎日、電話がかかったりしてきて迷惑してる。

病院としてちゃんと職員の教育をして欲しいって電話がきたのよ」

私はその話を聞いて愕然とし呆気にとられた。

(事実は全くその正反対だっていうのに…)

「違います!師長…まさかその話…本当だと思ってるんですか?」

「本当かどうかは私にはわからない。あなたのことは信用したいけど…

病院としても評判を下げるようなことは避けたいのは事実だから

あなた自身の問題をちゃんと解決しないと、正直私もかばいきれないわ」

そう言い師長は「会議があるから」と話しその場を立ち去った。

私は呼び止めて聡とのこれまでのことを話そうとした…

だが信じてもらえても問題の解決にはならないと思い

内容について否定だけしたままその場を後にした。

密告

あくる日、私は何事もなかったように出勤した。

毎日の朝礼が終わり

私がステーションに戻ろうとしたその時だった。

師長が私に近づいてきて誰にも聞こえないように囁いた。

「藤田さん…ちょっと院長室に行ってきて。」

直感的に私は昨日のさとしの言葉を思い出していた。

高鳴る胸を押さえ私は院長室のドアをノックした。

「はいどうぞ、お入りなさい」

穏やかな院長の声が聞こえた。

「失礼します」

院長はソファーに座るよう私に勧めると

とても困惑した表情で話し始めた。

「昨日、患者さんから匿名の電話があってね

藤田さん…何か思い当たることがあるかい?」

「いえ…何も…」

顔面が熱く紅潮して声が上ずっているのが自分でもよくわかる。

「僕はね…職員のプライベートなことはとやかく言わない主義なんだ

だけど世間では中々そういう風に見てくれないものなんだよね。

君は勤務態度もいいし患者さんからも好かれていると聞いているから

その患者さんが誰か別の人、もしくは何か勘違いしていると思いたいが

一応、そういう電話があったことは伝えておいたほうがいいと思ってね

君はまだ独身だから職場以外でも気をつけたほうがいいと思うよ。」

院長は私生活について忠告だけしてくれたが

私に気を遣ってかその電話の内容までは話してくれなかった。