日蓮大聖人御書十大部 第一巻

立正安國論講義

 

細井日達監修

池田大作著

 

 

 

 

 総本山第六十世日達上人(にったつしょうにん)猊下(げいか)の御監修を(たま)わり、意義深き七月三日を記念して、立正安国論講義(りっしょうあんこくろんこうぎ)を発刊できえたことは、私の生涯における最大無上の光栄であり、感激である。

 本講義を(あらわ)すことは、資性(しせい)凡愚(ぼんぐ)の私にとり、まことに恐れ多きことであるが、ただ私は末法今時(こんじ)大聖哲(だいせいてつ)日蓮大聖人の一切衆生の幸福を願うてやまぬ大慈悲を伝えるため、国家人類の福祉と、安穏のため、かつ子孫末代までの繁栄のため、全魂を傾け、心血を注いで執筆にあたったことは、私のいつわらざる心情である。決して、わが身のためとか、わが学会のためといった偏狭(へんきょう)な心からでは毛頭(もうとう)ない。

 立正安国論は、文応(ぶんおう)元年七月十六日、日蓮大聖人が、立宗(りっしゅう)より七年目、御歳(おんとし)三十九歳の時、当時の最高権力者、北条時頼(ほうじょうときより)に対して提出された、第一回目の国家諫暁(こっかかんぎょう)の書である。

 この書について、種種御振舞御書(しゅじゅおふるまいごしょ)(九〇九㌻)にいわく「()の書は白楽天(はくらくてん)楽府(がふ)にも越へ仏の未来記(みらいき)にもをと()らず末代(まつだい)の不思議なに事かこれにすぎん」と。

 また、第二十六世日寛上人は、安国論をはじめとする三度の国諫(こっかん)における予言が、(ことごと)く的中したことに対し「暫時(ざんじ)筆を()いて紅涙(こうるい)白紙(はくし)(てん)ず」と述べられている。

 まさに、立正安国論は、日蓮大聖人の慈折広布(じしゃくこうふ)の開幕であり、かつ末法万年未来永劫に輝く不変の大理念である。

 故に、この聖書こそ、現今の混迷せる日本、抗争常なき、世界人類の様相を映し出して曇りなく、その根源をつき、これに解決を与える世界平和確立(かくりゅう)の一大宣言書であると確信してやまぬ。

 立正安国の立正とは仏法であり、安国とは王法である。所詮、立正安国論とは王仏冥合論(おうぶつみょうごうろん)にほかならない。即ち、立正の(しょう)とは本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇の三箇の秘法(ひほう)であり、個人の幸福を実現し、更に政治、経済、教育等のあらゆる文化の本源となるべき、真実の大宗教である。しかして日蓮大聖人は、立宗以来本門の題目を(ひろ)められ、弘安二年十月十二日、独一本門(どくいつほんもん)の大御本尊御建立(ごこんりゅう)をもって、まず法体(ほったい)の広宣流布を成就(じょうじゅ)遊ばれ、本門戒壇(ほんもんかいだん)建立並びに、化儀(けぎ)の広宣流布達成は、滅後(めつご)の末弟に遺命されたのである。この本門戒壇建立によって、名実ともに、三大秘法(さんだいひほう)建立となり、立正の二字が成就されるのである。

 安国の国とは、一往(いちおう)は日本国、再往(さいおう)は全世界と読むのである。

 日寛上人の分段にいわく、

 「日我(にちが)いわく『安国とは一閻浮提に通ずべし、しかも本門弘通の最初は、日本国なるべし、本門日輪(にちりん)行度(ぎょうど)これを思へ』」と。

 また安国論の最後の「三界(さんがい)は皆仏国(ぶっこく)なり仏国()(おとろえ)えんや……」の(もん)(しゃく)していわく、「文はただ日本および現在にあり、(こころ)閻浮(えんぶ)および未来に通ずべし」と。

 すなわち、日蓮大聖人の仏法は、ある一時期にだけ通用したり、一民族や一国にのみとどまるような偏狭(へんきょう)な教えでは断じてない。未来永劫にわたり、民族を越え、国境を越えて、全世界に燦然(さんぜん)と輝きわたるとの御教示である。しかして、先ず、日本の王仏冥合を達成することが、世界平和への最直道(さいじきどう)であることも明白である。

 日蓮大聖人の正統の教えを信奉する、我が日蓮正宗創価学会の活動は、一貫してこの立正安国の方程式を大精神とし、かつ未来への根本指標とすることもいうまでもない。

 御書にいわく「(ほう)(みょう)なるが(ゆえ)に人(たっと)し」と。日蓮大聖人の人法一箇(にんぽういっか)の哲理実践の上に、真の大文化を興隆(こうりゅう)させていく――これ立正安国の(いい)である。

 ひるがえって、世界の現状をみるに、そこには阿鼻叫喚(あびきょうかん)の姿がある。米中の対立は、かつてないほど深刻であり、米中戦争、ひいては恐るべき核戦争の危機は日に日に増大し、人類にいい知れぬ恐怖と不安と動揺とを与えている。なかんづくその対立の犠牲者たるベトナム等のアジアの民衆の不幸な姿は、筆舌に尽くせるものではない。

 一歩振り返ってみたとき、この日本の国土にも、あのベトナムの悲劇が起こらぬと誰人が断言できようか。

 されば、かつて日蓮大聖人が、当時の三災七難(さんさいしちなん)を御覧になり、一国の諫暁(かんぎょう)にふみきられたと同じく、現代世界の危機迫る現状を見て、今こそ日本、更に世界の国諫、即世界広布の必然性を強く、深く痛感するのである。

 御書(二六五㌻)にいわく「(たと)五天(ごてん)つわも()のをあつめて鉄囲山(てっちせん)(しろ)とせりともかなふべからず必ず日本国の一切衆生・兵難に()うべし」と。これは、大聖人の至誠(しせい)の国諫を聞き入れず、のみならず種々の迫害を加えた当時の為政者(いせいしゃ)に対する厳しき警告であった。この警告は、あの太平洋戦争の時に遂に事実となって現れた。

 今また、日本国の現状はかつてなき他国侵逼難(たこくしんぴつなん)自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)()わんとしている。東西両勢力の波は、ひたひたとわが国に押し寄せ、国内ではさらに左右両翼の対立が深刻化することは、必至(ひっし)である。とくに日本の方向を決する外交問題や、国家の防衛をめぐり、国論は真っ二つに割れて争い、大波乱を生ずることは不可避(ふかひ)の様相である。更にこのまま続けば、これらの悪循環は永く(とど)まることはないであろう。

 それでは、この重大な岐路にさしかかった日本民族を(うれ)え、真の平和と繁栄を護り抜いていこうとする指導者は、勢力は、いったい、いずこにあるであろうか。悲しいかな、指導者の多くは、私利私欲、名聞名利にとらわれて、現今の混乱を解決し、新しい日本の前進を決定する、力強い理念も、方途もないことは、もはや明瞭であるといわねばならぬ。もし、日本がこのまま進んでいくならば「日本国の一切衆生・兵難(へいなん)に値うべし」の御金言が再び現実となることを恐れるのである。

 伝教大師(でんぎょうだいし)いわく「国宝(こくほう)とは何ものぞ、宝とは道心(どうしん)なり。道心有るの人を名づけて国宝となす」と。道心とは、仏法の真髄(しんずい)(たも)つことであり、末法今日においては、日蓮大聖人の大仏法を奉じた人が、真の道心の者であることは明らかである。

 さればこそ、大仏法を奉持(ほうじ)し日本民族の運命を担い、ひいては苦悩に沈む世界民衆を救うために立ち上がったものこそ、日本の宝であり、世界の宝ではないか。

 御書(一七〇㌻)にいわく「澗底(かんてい)長松(ちょうしょう)未だ知らざるは両匠(りょうしょう)の誤り闇中(あんちゅう)錦衣(きんい)を未だ見ざるは愚人(ぐじん)(とが)なり」と。

 世の心ある指導者に言いたい。真に民衆のため、祖国のため、世界人類のために身命をなげうって戦っている、まじめな、清純な人々、団体のあることを見落としてはならぬと。そして、増上慢(ぞうじょうまん)の批判をすること(なか)れと。

 およそ、宗教のための宗教――これ何と、利己主義の思想であろうか。また非科学的な宗教であろうか。これ何と無智(むち)盲目(もうもく)の、一時的宗教であろうか。

 今我等が持つ色心不二(しきしんふに)の大仏法は、あらゆる人々を根底的に幸福にしきる大宗教であり、かつ旧来の唯物(ゆいぶつ)唯心(ゆいしん)思想をより高い次元から指導し、統一しうる大理念である。また、この大生命哲学を基盤とする絶対平和思想、仏法民主主義、人間性社会主義、さらに中道主義、世界民族主義等のすぐれた理念こそ、今後の日本、世界をリードしていくべき、新時代の大革命原理であると主張してやまない。

 しかして、今日に至るまで、他門流(たもんりゅう)においても幾多の智者が、この講義をし、書としたかは数知れぬ。だが、これらの書は総て、文底深秘(もんていじんぴ)の大法を知らぬ講義であった。ゆえに「日蓮を用いぬるともあし()()やまはば(くに)(ほろ)ぶべし」の御聖訓のまま、今日の為体(ていたらく)となっている。とくに、あの太平洋戦争中、日蓮門下と称しながら、軍部に迎合するために、安国論を曲げて解釈し、悪用した徒輩(とはい)がいた。

 国を諫めるべき筈の書を、謗法に染まった国家権力に迎合するために用いるとは、狂気の沙汰以外の何ものでもない。思えば、一代亡国の姿を現じたのは、仏法の鑑に照らし、必然であった。

 昭和二十七年、戸田前会長は、王仏冥合の法旗を掲げて、大聖人の御観心を根底に、安国論の講義録を遺された。この講義の一波が、万波の怒濤となって、今八百万人の地涌の菩薩が、法戦に勇躍歓喜して精進しているのである。

 この講義録が世に出るや、世間の人々の安国論に対する反響は大きく、また様々であった。ある人は驚き、ある人は難解といい、ある人は、過去の古文書にすぎぬ等々。

 また、この書の実践を見て、ある人は驚倒(きょうとう)し、ある人は、狂人といい、またある人は、未来に黎明(れいめい)を見る思いがする等々。

 今また、王仏冥合の実践段階に(のぞ)み、かつまた岐路に立たされた日本の国情(こくじょう)、危機にさらされた世界の動向を凝視(ぎょうし)し、深く思慮するに、再び立正安国の法旗を高らかに掲げる時期が到来したことを実感し、胸迫る思いがする。ここに戸田前会長の講義を一切含め、さらに日寛上人(にちかんしょうにん)の分段、第五十九世堀日享上人(ほりにちこうしょうにん)研鑽(けんさん)にもとづき、王仏冥合、世界平和の一大宣言書として、新時代に即応した講義録を発刊する決意をしたのである。

 これを見て、ある人は右翼といい、ある人は独善とののしるかもしれぬ。だが、所詮、無責任な批判ほどうつろいやすく、また(もろ)いものはない。この一書が、永久不滅の幸福と平和の原理となるか否かは、時代がこれを厳然と証明することであろう。

 発刊日の七月三日は、戸田前会長の出獄の日である。またこの日、()しくも私が、昭和三十二年に国家権力の謀略(ぼうりゃく)によって入獄した日でもある。また七月は、日蓮大聖人が立正安国論を顕わされ、国諫をなされた月であり、まことにこの日、この月は、王仏冥合の前進にとって、意義深く、また思い出多きことを感ずる。

 私は、この書の発刊にさいし一宗門人とし、社会人とし、更に妙法によって救済された人間として、その深恩(じんおん)の万分の一でも報いたいと念じている昨今である。

 願わくは本書が、宗門のため、広宣流布のため、更に、日本の安泰のため、世界平和のために、必ずや、貢献でき得ることを、祈ってやまぬ。

 尚、この講義録作成にあたり、青年部を代表し多田省吾君、学生部を代表し原島嵩君および桐村泰次君、高等部を代表し上田雅一君の四人の青年教授の方々の多大なる研究編纂(へんさん)の労を、心から感謝する次第である。

 

    昭和四十一年七月三日

創価学会会長 池 田 大 作   

(日蓮大聖人御書十大部 第一巻 立正安國論講義 池田大作著 宗教法人創価学会)