創価中学・高等学校 第26回入学式

関西創価中学・高等学校 21回入学式

「勇気」の二字に学園の魂

〈平成5年4月8日〉   

 

 

 東京校26期、関西校21期の皆さん、きょうは晴れやかな入学式、本当におめでとう。ご家族の皆さまにも心からお喜び申し上げます。また、教職員の先生方、お世話になります。新たな世紀を担う大切な「未来の宝」を、どうか、よろしくお願いいたします。(拍手)

 

 学園は勉強に対して厳しい。他の学校のほうが楽かもしれない。しかし若き日にこそ「人生の骨格(こっかく)」ができる。「英知(えいち)の骨格」ができる。そして骨太(ほねぶと)の人格と知性の人は、一生涯、成長を続けていける。名医は、経験を積むほど、より名医になる。名教育者も同じである。

 青春時代に勉強しぬいた人は、あとになって「本当によかった」と思うにちがいない。そうでなかった人との差は、年ごとに広がっていく。

 

 「世界への道」が「君たちの道」

 

 今回、私は約2カ月にわたって北・南米6カ国9都市を(おとず)れた。どこの地にも、学園から巣立っていった諸君の先輩がいた。

 学園時代はとくに目立った存在ではなかった人たちも、今、目を見張るような活躍をしている。私は本当にうれしい。

 「世界への道」は、恩師戸田先生から(たく)された、私の「使命の道」である。

 「君は世界に()くんだ。世界の民衆が待っている。そして、世界の知性と友情を結ぶのだ。君の開く道を多くの青年たちが続いていくだろう」と。

 この恩師の遺言(ゆいごん)のままに、今から33年前の昭和35年(1960年)、私は一人、平和への遠征(えんせい)を開始した。

 学園の建設準備も、私は、このころ、すでに人知れずはじめていた。〝最高の教育環境の場所を〟と、土地の選定もはじめていた。

 さて、このたびの北・南米の旅の最後の訪間地はサンフランシスコであった。私が、33年前、北米大陸に第一歩を印したのも、このサンフランシスコである。

 サンフランシスコで、私は、カリフオルニア大学バークレー校を訪問し、チェン総長と語りあった。

 同校には、以前にも訪れたことがある(1974年)。当時のボウカー総長とも懇談した。〝創価学園、創価大学の未来をどう開いていくか、どうあるべきか〟――そうした思いで、私はこれまで思索をかさね、発展の種をまいてきたつもりである。

 すべて皆さんのために、私は道を開いてきた。あとには、バトンを渡す学園生がいる。創大生がいる。それを思えば、私は幸福である。

 

 本日は、皆さんに、まず「勇気の二字で青春を勝ち取れ」と申し上げたい。

 何ごとも「勇気」である。朝、起きるのも、また〝誘惑に負けてたまるか〟とテレビを消すのも(爆笑)、「勇気」が必要である。勇気とは自分に打ち勝つ強さである。勇気がないのは、衝動(しょうどう)と本能に引きずられた弱い生き方である。悪しき衝動や本能を抑制(よくせい)できるのが人間である。勇気の裏づけとなるのは「知性」なのである。

 

 バークレー校は「東のハーバード、西のバークレー」とならび(しょう)され、15人ものノーベル賞受賞者を出している。世界的な「知性のセンター」である。

 今回の訪間の折、チェン総長から開学125周年を記念して「教育・平和貢献賞(こうけんしょう)」を贈っていただいた。また、「ぜひ、わが大学でも講演を」との要請もいただいた。

 総長は、著名な物理学者として偉大な業績を残すとともに、学生を心から大切にされる大教育者である。学生・生徒をわが子のごとく大切にする――それが本物の教師である。

 チェン博士はアジア系でははじめて、アメリカの主要大学の総長となられた。異国の地で新たな道を開拓することが、どれほどむずかしいことか。それを可能にした一つの力が、総長の「勇気」であった。

 

 英知の「骨格」築いた青春の苦闘

 

 日本軍の中国侵略(しんりゃく)や、その後の激動――総長が14歳の時には、一家は財産と故郷を奪われた。また、その3年後には、尊敬する父を亡くすという苦難の連続――。そのなかで、総長は「学びの炎」を燃やし続けた。負けなかった。やがて、奨学金を勝ち取ってアメリカに留学する。

 しかし、そこに待っていたのは、人種差別の壁であった。「東洋人」というだけでいじめられ、担当の教授からは軽侮(けいぶ)をこめて「チャイナ・マン(中国人)」と呼ばれ、名前で呼ばれることはなかったという。

 かつて軍国主義が横行した日本でも、中国の人や朝鮮の人を見くだし、差別していた。戸田先生も、私も、この横暴に激しい怒りを(いだ)いていた。

 総長は、臆病な負け犬ではなかった。ばかにした呼び方はやめるよう教授に抗議したのである。

 正しいこと、言うべきことは、きちんと言わねばならない。臆病では、結局、自分が損をしてしまう。悪に絶対に負けてはならない。

 〝いじめ〟も多くの場合、勇気をもって抗議できない弱さに、つけこまれてしまう――と、ある教員の方が語っていた。「勇気」の心が、わが学園の「負けじ(だましい)」である。先輩から後輩へと、受け継がれている伝統である。

 さらに、総長は、この屈辱(くつじょく)を前進のバネにした。「いつの日か、私が平等と調和の社会を築いてみせる」と決意し、みずからの「人格」と「知性」を磨いていかれたのである。

 そして今、そのとおりの人生を歩んでおられる。まさに勝利の姿である。

 

 また、総長は、若き日、勉強だけではなく、バスケットボールにも、はつらつと汗を流した。

 小柄な総長は、背の高い人より、何倍も努力しなければならなかった。しかし、そのなかで鍛えられたことが、全部、エネルギー源となっているという。

 また、チームワークを大切にする心も、スポーツをとおして身につけた――と。

 どうか、わが学園生も、すべてにベストを尽くす、勇気ある「獅子(しし)」と育っていただきたい。

 

 朗らかな人が強き人、勝てる人

 

 次に「朗らかな挑戦の心で、大いなる人格をつくれ」と申し上げたい。

 舞台は同じサンフランシスコ。今から100年あまり前、日本の一人の青年が、長い太平洋の船旅(ふなたび)を終え、この地に立った。

 のちに「太平洋の橋」、そして「国際連盟の輝く星」(連盟事務次長)とうたわれ、日本を代表する国際人として活躍した、新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)博士である。ご存じのとおり、博士の肖像(しょうぞう)は5千円札に使われている。

 博士は、「創価教育」の原点である牧口先生の友人であった。『創価教育学体系』の発刊にさいし、博士は「これこそ待ち望んでいた教育学である」「創価教育学の意義ある門出(かどで)(しゅく)したい」等の序文(じょぶん)を寄せてくださった。

 (=「君の創価教育学は、()の久しく期待したる我が日本人が生んだ日本人の教育学説であり、(しか)も現代人が()の誕生を久しく待望せし名著(めいちょ)であると信ずる」「此処(ここ)に創価教育学の意義ある門出を祝し、一文を()して(これ)を推奨するものである」と(しる)されている)

 一流の人は一流の人を見ぬく。その偉大さを心から称賛できる。反対に、二流、三流の人は、一流が理解できなかったり、ねたみ、非難したりするものだ。

 

 今年は、博士が亡くなって60周年。その意味で、きょうは「創価教育学」の理解者であった博士の青年時代のエピソードを紹介したい。

 新渡戸青年がアメリカ(東部のジョンズ・ホプキンス大学)に留学して間もないころ。めずらしい日本の話が聞きたいと、講演の依頼を受けた。一応、引き受けたものの、まだ、それほど英語に自信があるわけではない。非常に困った。

 当日――約束の講演の時間が近づくにつれ、緊張で胸は高鳴り、体はガクガクと震えがとまらなかった。もうダメだ、このまま逃げだしたい、とも思った。しかし彼は、きっぱりと腹を決めた。

 「うまくやろうなどと考えずに、思っていることを、思いきり、ぶつけてみよう」と――。

 すると、しだいに体の震えはとまり、落ちついて話をすることができた。

 彼は、こうした経験を何度かかさねるうちに、やがて何百人を前にしても、水が流れるように流暢(りゅうちょう)なスピーチができるようになったという。

 青春とは、〝勇気ある挑戦〟の連続である。失敗を恐れて委縮していては、何もできない。何も残せない。

 ともかく前へ前へと進むことである。たくましい「挑戦」の心こそが、自分の「可能性」を広げていく。

 

 自分に負けず「学びの炎」を

 

 長い人生には、いろいろなことがある。博士も十七歳で愛する母を亡くした。

 また、極度の近視であり、激しい頭痛、ノイローゼなど、何度も病に倒れたこともある。

 しかし〝真の勝利者とは、自分に勝つ人である〟――これが博士の人生の一つの結論であった。私も、そう確信する。

 皆さんも、思いもよらない問題に直面することがあるかもしれない。しかし、同じ苦労であるならば、年をとってから、あれこれ苦しむよりも、若い元気な時に、苦労をかさね、苦難を乗り越え、確固たる土台をつくっておいたほうが、くずれない幸福を築いていけるものだ。

 サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋(きんもんきょう))も、堅固(けんご)につくられているがゆえに、大地震にも耐えられた。

 青春時代は人生の土台をつくる時である。確固たる土台があってこそ、大いなる建設ができる。  

 今こそ、皆さんは、21世紀に揺るぎない「世界の平和の橋」となる人格の土台を築きあげていただきたい。

 

 新渡戸博士は、ある青年に語っている。

 「日本村(ジャパン・ビレッジ)で有名になろうなどとは考えるなよ」(松本重治「新渡戸先生」、『現代に生きる新渡戸稲造』所収、教文館)と。

 ちっぽけな日本でなく、世界を舞台に生きぬけ――これが博士の信念であり、若き友への期待であった。私も同じ決意で生きてきた。皆さんに同じ期待を寄せている。皆さんの本舞台は「世界」である。「地球」である。

 私の世界の旅も、南米のチリで50力国となった。そのチリの大詩人であるミストラル女史(じょし)は「世界のどこでも私を必要とするところへ行こう」――と述べている。

 何度も申し上げるが、学園出身の皆さんのお兄さん、お姉さんたちも、こうした心意気で、世界中で活躍している。凛々しいその姿を見るたびに、私は安心する。立派だと感心する。

 

 チリは、訪間するには日本から〝いちばん遠い国〟である。

 文化の薫り高き「詩の国」として有名である。これまで、このミストラル女史と革命詩人ネルーダの2人がノーベル文学賞に輝いている。

 最後に、この二人のエピソードをとおし、「ダイヤモンドの友情を築いていただきたい」と申し上げたい。

 1949年、ネルーダは弾圧を受け、国外に亡命した。「正義の人」は、かならず不当な弾圧を受けるものだ。すかさず各国にある大使館、領事館(りょうじかん)に「ネルーダをかくまうな」と命令が出された。

 

 一度結んだ友情は裏切らない

 

 ところが、ちょうどイタリアで領事をしていたミストラル女史は、少しも恐れることなく、ネルーダを受け入れ、きっぱりと語った。

 「友達に私の家の扉を開かないなんてことはできません」(芳田悠三『ガブリエラ・ミストラル―風は大地を渡る―』JICC出版局)と。

 一度結んだ友情は絶対裏切(うらぎ)らない。その人がたいへんになればなるほど守りぬいていく。これが「人間性」である。私の生き方でもある。

 信頼を〝裏切る〟のは、自分で自分の人間性を裏切っているのである。良心を失った卑劣な人生となってしまう。

 信条の違い、立場の違いを超えて、真の「人間」として、人格と人格で結ばれていく――その友情は人生の宝である。私も世界中に真実の友人がたくさんいる。

 皆さんも、この学園でダイヤモンドのごとき友情を幾重(いくえ)にも育んでいただきたい。

 

 青春は二度とかえらない。大切な一日一日を楽しく、朗らかに過ごし、自分自身の実力を(やしな)うすばらしい歴史をきざんでいただきたい。私は、これからも、いよいよ世界をまわるつもりである。

 命あるかぎり、どれだけ人類のために働けるか、どれだけ後世のために道を開けるか――皆さんのために、その模範を私は示しきっておきたい。(拍手)

 きょうは、本当におめでとう。関西学園の皆さんも、〝おおきに〟! ご父母の皆さまも、ありがとうございました。

 次に、お会いできる日を楽しみに、本日の祝福のスピーチを結びたい。

(東京・学園中央体育館/関西・学園記念講堂=衛星中継)

 

(『池田大作全集』第57巻 教育指針 創価学園[2] 聖教新聞社https://www.seikyoonline.com/