2024年元旦

 

 

 

世界青年学会開幕の年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新しき一年の旅立ち

 富士の如く 我らは勝ちたり

2004.1.6 

 

 

 富士が見えた。

 「何ものをも恐れるな! 正義の魂を、断固として持ち続けてゆけ!」と、白雪(はくせつ)を輝かせながら、富士は、永遠の力を持って、そびえ立っていた。

 永遠の勝利の王者そのものの英姿であった。

 2004年の正月、八王子の東京牧口記念会館から見つめた富士である。

 この1月2日、私は76歳の誕生日を迎えた。

 病弱のため、富士の如くに強くありたいと、常々、願い続けてきた私が、「1世紀の4分の3」の年齢を超えたことになる。まことに、妙法の功力は絶大である。

 新たな一年の旅路が始まった。今、私の胸中には、満々たる闘魂が燃え上がっている。

 

  共々に

         不二(ふじ)を見つめて

                         勝ち戦

 

 その水は美しく澄んでいることであろう。空気は明るく、(こころよ)いことであろう。

 正義の人間は、常に富士を仰ぐべきだと言い(のこ)した哲学者がいた。

 富士は、常に「正義を注視せよ! 邪悪を厳格に打ち破れ!」と、無言にして、大声で叫んでいるように見える。

 信濃町の旧本部の庭から、戸田先生と私は、師弟二人して、正月の富士を見つめたことがあった。先生は富士を指差し、確信を込めて言い放った。

 「学会は、宗教界の王者である。いな、世界平和に戦う王者なのだ。君たちよ、心を尽くして、立派に使命を果たすのだ。断じて負けるな! 最高の王であり、最高の智慧者(ちえしゃ)である富士を(あお)ぎながら、語りゆくのだ」と。

 

 また、1954年(昭和29年)の春3月のことであった。

 私は戸田先生から、「大作が立つ時が来た。大作よ、青年部の室長になれ。俺も少々、疲れた。一切、頼むぞ」と、直接の任命をいただいたのだ。

 ともあれ、戸田先生が、約3千人の同志と共に、第2代会長として立たれ、広宣流布の大進撃を開始して、間もなく満3年を迎えようとしていた。広宣流布の構想はすべて先生の胸中から発し、折伏弘教の波も、いよいよ10万の大波となってきていた。

 しかし、大躍進とはいえなかった。

 当時の学会は、すべてが、戸田先生の双肩(そうけん)にかかっていた。個人指導も御書講義も、青年たちの訓練育成、そして、地方への広布の展開も、すべてが先生の陣頭指揮(じんとうしき)で行われた。

 学会を「船」だとすれば、先生お一人で、船のスクリューと操舵(そうだ)()ねておられたようなものであった。

 御本尊を根本として、同志の信心のエンジンは回転を増していた。その勢いが確実にスクリューに連動し、正しく舵取りされてこそ、船は波を蹴って前進する。

 先生は、新しいスクリューをつくろうとされた。そして私に広宣流布の全責任を担うべき立場を与え、訓練してくださったのである。

 任命のその日、3月30日の日記に、私は綴った。

 「一段、一段、学会の中核となって、広布の推進をせねばならぬ。

 これが、自己の使命だ。草花あり、花を咲かせる。これ使命なり。

 自己あり、妙法の流布をいたす。これ使命なり」(『若き日の日記』。本全集第36巻収録)

 そして、仏と魔の大闘争に立ち上がる決意を込め、「結句(けっく)は勝負を決せざらん(ほか)は此の災難()(がた)かるべし」(全集998㌻新版1333㌻)と記した。仏法は、あくまでも勝負である。わが使命は勝つことなりと、私は生命に刻みつけたのであった。

 

 50年前のこの年(1954年)、戸田先生は、年頭から青年部幹部の会合に出席し、「次代の学会は青年に託す!」と、烈々たる気迫で叫ばれた。

 私に対する毎朝の講義も続いていた。「勉強せよ、勉強せよ」と、先生のお声には、遺言(ゆいごん)の響きさえあった。

 そうしたなかでの、青年部の室長の任命であった。それは、創価の中核中の中核である。

 私は、「自分の成長が青年部の成長である。いな学会の前進である」と決心したのである。

 何があろうが、歯を食いしばって、一歩でも、二歩でも前に進むことだ。私は、毎日、寸暇を惜しんで御書を拝した。読書にも挑戦した。仕事も、学会活動も、全責任を持ちながら、戦い、走り回った。一日一日が激戦であり、勝負であった。

 あまりにも多忙極まる日々であり、私の弱い体は、重苦しい疲労が重なり、微熱はいっこうに下がらず、いつ倒れても不思議でない生命の状態になっていた。

 先生は、魔を断ち切るように厳しく言われた。

 「三障四魔(さんしょうしま)との戦いだ。泣いて、御本尊を拝みゆく以外に打開はないよ」

 断じて、強くなれ!

 強く立て!

 強く生きるのだ!

 私は、色心の宿命を革命する思いで、猛然(もうぜん)怒濤(どとう)に立ち向かっていった。

 

 室長になったからといって、戸田先生から、こうしなさい、ああしなさいといった話は全くなかった。

 「まず、全部、自分たちで責任をもって考えよ」という先生の訓練であった。

 ある地方で、既成宗教から布教が妨害されたと聞けば、すぐ青年部が現地へ飛んだ。

 現場第一である。そして、同志が苦しまないよう、戦いやすくなるよう、また、広布の長い展望のうえから、電光石火のスピードで、あらゆる課題に手を打っていった。

 机上で小手先の策を練るのではない。自らが最前線に飛び込み、誰よりも苦労して、智慧を湧かせ、活路を開いていくのだ。

 戸田先生は、「あくまでも自己に厳しく、人びとを大きく包容していくことを常に心がけなければ、強力なる推進力となることはできない」と将軍学を教えられた。

 当時は、本当によく先生に叱られた。情報が遅いと言っては叱られ、何かの対応について、また怒られる。直接、関係ないことでも、どうなっているかと叱責(しっせき)された。

 すべて、青年部が広宣流布の責任を担えとの、ありがたき厳愛の指導であったのだ。

 一人立つ――師の深き期待に応える大道は、この一念を定める以外にない。

 わが青年部の戦友もまた、自分のいるその場所で、断固として、勝利の全責任を担い立て! 広宣流布の激戦が行われているところなら、どこにでも駆けつけ、逆転の突破口を切り開け!

 私は、その模範の開拓者になって、戦い進んだ。そして、新しき勝利と拡大の渦を巻き起こしていったのである。

 

 任命から1カ月余が過ぎた5月には、「青年部5千人の結集」を行った。そのわずか半年後には、倍増の「1万人の大結集」も実現した。

 翌年(1955年)、日蓮宗(身延派(みのぶは))との「小樽問答(おたるもんどう)」でも勝った。「札幌・夏の陣」でも日本一の弘教を敢行(かんこう)した。

 1956年(昭和31年)の「大阪の大法戦」では、1支部で1万1111世帯の折伏という不滅の金字塔(きんじとう)を打ち立てた。

 続く「山口の開拓指導」も勝った。学会員を(いじ)め、信教の自由を(おか)すような勢力と戦った「夕張炭労事件」でも、私は勝ってきた。

 さらに、第3代会長に就任した翌年(1961年)には、国立競技場を埋め尽くした「精鋭(せいえい)10万の大結集」を達成した。これには、日本中が驚き、幾多のマスコミが走った。

 私は、この大結集を、青年部の室長としての決着点と決めていた。私は、満天下に完勝の旗を悠然と打ち立てたつもりだ。

 楽な戦いは1つもなかった。誰もが「難しい」「無理だ」と後込(しりご)みする激戦ばかりであった。しかし、偉大なる師匠の弟子として、断じて負けるわけにはいかなかった。

 一つ一つが「壁を破る」戦いであった。「邪悪を打ち破る」戦いであり、「正義を打ち立てる」戦いであった。「創価の使命と偉力を示しきる」戦いであった。

 今度は、わが本門の弟子である青年部諸君が、誇り高く立ち上がる時だ。

 若き英雄の君よ、広宣流布の法戦にあって、わが支部の勝利の〝青年室長〟たれ!

 同志が信頼する、わが地区の〝青年室長〟たれ!

 

 富士は、いつも、見る者に安心を与える。勇気を奮い立たせ、すがすがしい気持ちにさせる。富士と対話すると、皆、元気になる。

 偉大なる広布の同志はかくあれ――と、私は祈り願うのみだ。

 この1年、絶対に1人も残らず、わが使命の地域で、わが人生の舞台で、後悔なき前進を、そして歓喜の太陽を浴びながら、完璧な勝利の金字塔を打ち立てていただきたいのだ。

 あの富士の如くに!

 わが広々とした胸中に!

 

(『池田大作全集』第135巻 随筆 人間世紀の光 1)

 

 

 

 

嬉しい時も悲しい時も楽しい時も苦しい時も、どんな時も挑戦をやめないこと。

人生の途中の勝ち負けよりも挑戦をやめないことで、実は鍛えられ実力がついて少しづつ強くなっている。挑戦をやめなければ、〝未来の自分は必ずさらに強くなっている〟と確信すれば、人生は楽しくなる。確信だ。

悩みや苦しみがないことが幸せではない。転んでも転んでも、泣きながらでも起き上がって立ち向かっていく、挑戦しゆく人こそが絶対的幸福の人ではなかろうか。

諦めや惰性や怠惰、慢心が強い、とても学会員らしくないボクだから、下品でしょうもないボクだから、人間革命、宿命転換することで、信心の実証を沢山示すことができる。

戸田先生の言われた「あくまでも自己に厳しく、人びとを大きく包容していくことを常に心がけなければ、強力なる推進力となることはできない」との難しそうな将軍学をボクも胸に刻んで、今日より心改めて、退転しかけの信心を今一度、立て直して、そして、鍛え直して、池田先生に報恩感謝の御報告ができるように頑張って参ります。

 

先生、見とってください!

 

by. ハピネス